暗殺者

ほおずきさん三題噺 第二十三回

お題【針、劇場、左利き】

「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだがの穴を通る方がもっと易しい」        

                   新約聖書 マタイによる福音書  

暗殺者がターゲットの調査を始めて一週間が経とうとしている。依頼者とは面識はない。ただ指名されたターゲットを仕留めるだけだ。だが今回は少し違っている。実行はターゲットが勤務する社内で一カ月以内。ターゲットが恐怖を感じないようにやること、という条件が付いている。サイレンサー付きの銃を使う暗殺者が恐怖を感じさせないためには銃をターゲットに見せるわけにはいかない。難しい。しかし報酬は破格の1000万円。半金は既に受け取った。

綿密な調査は功を奏していた。ターゲットの女性は水曜日には一人で残業をする。翌木曜日の会議の資料を作成するためだ。夜の11時頃にオフィスの電気を消して退社することがわかった。

暗殺者はメッセンジャーのバイトに入った。ターゲットの会社と取り引きのある会社だが、なかなか意中の配達はなかった。しかたなく配達先をわざと間違えることにした。大きな社屋の15階にターゲットはいる。オフィスのドアは木製。ターゲットはすぐにわかった。木曜日、その日は会議の日。ターゲットの名前を上司らしき人物が呼んだからだ。美しい女性だ。

彼女は大きな声で返事をした。右腕に資料を抱え、上司のデスクで何かにサインをしたようだ。左利きだとわかった。それで調査は完了した。

クリーニング業者から警備の制服を拝借して、水曜日を待った。暗殺者は黙々と仕事をする、ただそれだけだ。しかしどんな依頼者があの美しい女性を消したいのか気になった。依頼者はすぐにわかった。ターゲットの会社の御曹司、若き営業部長だった。彼は社の信任も厚い仕事のできる男らしかった。それがなぜ?どうして?

水曜日の早朝に警備室の監視カメラに細工をして午後10時半からの1時間だけ同じ画像がリピートされるようにした。そして夜がやってきた。警備の制服を着て、その上から黒い薄手のコートを羽織り、トイレに籠った。

ジリジリとする時間が過ぎていく。銃を取り出して点検をした。手袋の中で鈍く光るこの銃を使うのは今回一度きり。銃はその場に置いていく。

正規の10時の巡回が終わって、トイレから出た。オフィスにはまだ電気が点いている。薄手のコートを給湯室の流しに置いた。

10時40分にオフィスのドアの前に立った。ドアの向こうにターゲットの美しい女性がいる。ドアの向こうに立つ彼女が、ドアの左側にあるドアノブを左手で握った映像を頭の中に映した。しばらくしてライトが消された。ドアノブが回った瞬間、引き金を引いた。空気を裂く音とドアを突き抜ける音だけがした。サイレンサーを外し、銃をドアの前にゆっくりと置いた。給湯室のコートを着て、そのまま歩いて社の外に出た。

空には美しい月が輝いている。しかしこの世から美しい女性が一人消えた。暗殺者は公園のトイレであらかじめ置いておいた服に着替えた。

翌日の記事を見て暗殺者は驚いた。

「一流企業の後継者、射殺される。犯人は同社の女性社員」

女性の叶わぬ愛情のもつれからの犯行、とある。それは違うだろうという気がした。それは反対ではないのか。おそらく交際を断られたのは男の方だ。それともあの美しい女性が男に結婚を迫って邪魔になったとでもいうのか。しかしそれを確かめることはできない。どちらがどれだけもう一方を慕っていたかは想像の域を出ない。またこの依頼者が暗殺者の計画をどれだけ把握していたのかもかわらない。依頼者は彼女の死にゆく姿を見たかったのか、あの場でその気が変わったのかもしれない。しかし確かなことはこの依頼者の男は彼女への愛憎をあの場を劇場に仕立て、あのような形で表したのだ。

彼女は警察に対して語ったという。営業部長から繰り返し交際を迫られていたと。しかし彼女は拒み続けた。彼女は裕福な暮らしは望んでいなかったのだという。俄かには信じ難い。

新聞各紙には彼女が引用した聖書の言葉が踊っていた。

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