結婚、という契約
「なに、フザケたこと言ってんのよ。結婚って契約でしょ?」
「それはそうですけど」
「だったら人がどんな契約しようが法に触れてないんだったらほっいてよ」
高橋典子は2年前、61才の要三と結婚した。26才だった彼女は特に裕福でもなかった要三と結婚するにあたって3億円の死亡保険に入ることを条件にしたという。保険契約時、本人の要三が死に至る病気であることを知っていた場合、保険金は支払われない。それは受益者である彼女が知っていても同様である。彼女の言わんとしていることはわからないでもない。誰と結婚しようと勝手だ。しかし結婚から2年、病気療養をするわけでもなくいきなり亡くなった要三の死を見ると、その陰の部分を疑ってしまうのは仕方のないことだともいえる。
保険調査員の山名忠は困り果てていた。会社は絶対に不正があるから突き止めてこいと言う。「絶対に」と言うからには契約時にわかりそうなもんじゃないか。3億円の保険となると掛け金もかなりのものだ。それが欲しいために会社は契約したんだ。それを支払う段になって掌を返すのはどうしたものか。
近隣の住民に伺うと「仲のいい親子だと思ってた」と口を揃える。この「仲のいい」っていうのが重要だ、と忠は思う。二人の関係が何であったにせよ。表向き、二人は仲が良かったのだ。
聞けば典子は就活に失敗して半ば投げやりになっていたという。住んでいたアパートに程近いビルメインテナンスの会社に就職し、夜はスナックで働いていた。月々かなりの収入を得ていたが足繁く通ってくる要三に口説かれてとうとう折れたのだそうだ。最初は特に嫌でもなかったらしい。博学な要三との暮らしはまあまあだったが、既に定年退職していた要三は一日中家にいる。四六時中一緒にいること、それに耐えられなかったと典子は言う。それは正直な気持ちだろうと忠は思った。
「ママさん。典子さんってどんな方でしたか?」
「そうねぇ。気が利くとか、よく動くってのじゃないけど楽しい雰囲気を持ってる子だと思うわよ。かわいい子だしね」
「要三さんとはどんな感じでした?」
「そりゃここを辞める前は毎日のように来てあの子を口説いてましたよ。それなりに対応してたけど、仕事でそうしてたのかどうかはわからなかったわ」
働いていたビルメンテの会社の評価も概ねそんなものだった。これといったトラブルもなく、これで暮らしが成り立っていた典子が、収入のない老齢な要三と結婚するということに納得できる理由をみつけることはできなかった。
要三はと言えば、とても社交的とは言い難い人物だったらしい。典子と結婚するまではスナック通いをしていたが、その後は図書館に行くか、碁会所でたまに時間を潰すくらいで、典子が嘆くようにほとんど家にいたようだった。
碁会所で話を聞いた。
「要三さんはねぇ、寡黙な人だったよ。黙々と打つタイプだね。相手はほとんど決まった人だったよ」
その決まった相手にも話を聞いたが結婚したことさえ知らなかったし、健康のことが話題に上ったこともなかったという。図書館の貸し出し記録にも不審なものは見当たらなかった。保険契約時に要三氏が健康に不安を持っていた証拠はない。
「絶対に」あるという不正の影さえチラつかなかった。調査記録とともに「不正なし」という調査結果を付けて会社に提出した。1週間後、典子に保険金3億円が支払われた。
「この度はご迷惑をおかけしました」
「仕方ないわよ、あなたのお仕事なんだし。あの人は健康だったわよ。結婚したころは。だいたいあの人の提案なんだから。保険をかけるからっていうの」
「そうですか。無事に支払われて安心しました」
「はい。ありがとうございます。路頭に迷うところだったわよ」
「まさかそんなこともないでしょうけど」
「一度社会から身を引いてしまうとダメね。働く気がしないのよ」
「これからは悠々自適ですね。羨ましいです」
「あの人が幸せにしてやるからっていうのは本当だったわ」
そんな調査のこともすっかり忘れたある日曜日、私はここ、図書館にいる。「医学」の書架の前で勉強になりそうな書籍を漁っている。
女性に声をかけられた。
「あなたもご病気?」
「いえ、私は」
「隠さなくても分かるのよ。この棚の前であなたと同じ目をした人をこれまで何人も見てきたの」
「高橋さんってご存知ですか?」
「ああ、あの方も亡くなったわね。癌だったのよ。長かったわねぇ要三さんは」
「そうですか」
「お知り合い?」
「ええ、まぁ」
図書館を出ると雨とも霧ともつかぬものが降っている。少しばかり立ち止まって空を見上げたが、そのまま歩き出した。
一カ月後、忠は典子と結婚、という契約を交わした。