ほおずきさん三題噺 第十八回
お題「石、瞳、船」
深い深い森の奥に湖があった。この湖には流れ込む川も流れ出る川もなく、時々降る雨と太陽光による蒸発で均衡が保たれていた。湖岸には葦が生い茂り、周囲から湖面を隠していた。
この澄み切った深い深い湖の底には青と緑だけの世界があった。未だかつてこの世界の果てまで行った者はなかった。魔蟹、ケンタウロス、獅子、牡牛、醜い小人たち、この醜い小人たちには牡牛の角があってその先の毒には龍をも倒す力があると言われた。彼らはみな青い色をしていた。そしてメドゥーサがこの世界にいた。
そこにサエコと呼ばれる人の子がいた。ここに入って来るものはほとんど獅子に喰われたが人の子は喰われなかった。人の子は病原菌を持っていると恐れられていたからだ。サエコは人の墓という場所に住んでいた。そこには人の形をした石が横たわっていた。
サエコがここに落ちてきて13年目のある日、天空から棺桶が降ってきた。それは湖に着くと湖面を渡りゆらゆらと水中を漂って人の墓の上に降りた。
棺桶は月の明かりが届く日にだけ開いた。そこには人のような男が住んでいた。その男はフーディーニと名乗った。
「フーディーニさんは人なの?」
「そうとも言えるし、そうではないとも言える」
彼は棺桶から出ることはなかった。
「どっちなの?人が怖くないの?」
「私の人の性質が病原菌をはねのけるんだよ」
「なら私を喰うの?」
「いや、私は人は喰わないよ。だけど君のその赤い瞳に触れてみたいと思う」
「どうして私はこんなんなんだろう」
「君には世界の緑と生き物の青しかないんだね。私には君の赤い美しい瞳の色がある。人というのは不思議な生き物だな」
サエコは思い立つと葦の林に魔蟹を取りに出かけた。葦はどこまでも深く伸びていてその根を見ることはできなかった。
魔蟹を取るとどこかからケンタウロスがやってきてそれを長い矢で射止めた。サエコはその矢を集めてベッドを作り、フーディーニの棺桶の横に並べた。
「人はいつまで待っても私ひとりだけなのね」
「いや、以前にひとりだけいた。この私の下にいるのがそうだよ」
「もう人には戻れないの?」
「人がその手に触れたら元に戻ると言われている。君は触れてないんだね」
「触ってはいけない気がするのよ」
「それなら触らない方がいい。これはメドゥーサを見て石に変えられたんだ」
「メドゥーサは見たらダメなのね」
「石になってしまう。夜に見ると重い石に、昼に見ると軽い石になる」
「あ、軽い石になって浮き上がっていく牡牛を見たことがあるわ」
「浮き上がってしまうと上の世界ではもう生きられない。太陽の熱が強い過酷な環境なんだよ」
サエコは自分が軽い石になって浮き上がっていくところを思って怖くなった。
「フーディーニさんは上の世界から来たんでしょ?」
「だから上の世界の怖さをよく知っている。この棺桶がなかったら溶けてなくなっていたかもしれない」
「ああ、怖い。溶けてしまうのね」
「メドゥーサはどんな生き物なの?」
「それは誰も見たことがないんだ」
「もし私がメドゥーサを見てしまったらフーディーニさんが私に触れて助けてね」
「私は人ではないから助けられないかもしれない。でも必ず掴むと約束する」
「そうでないと私は上の世界で溶けてしまう」
月の明るい日には醜い小人たちが歩き回り、こちらを睨みながら通り過ぎていく。それは夜明けまで続いた。
フーディーニの棺桶が来てからというもの、サエコは夜起きているようになった。昼間はその赤い瞳を閉じてフーディーニの棺桶にもたれて眠った。サエコの赤い瞳がない世界は静かで水がそよと揺らぐこともなかった。
その日は月が出なかった。サエコはひとりが寂しくてぼんやりとまどろんでいた。
そしてその次の日は朝から胸がざわついた。日が昇ると上から届く光が眩しい気がした。何かが起きる。そう思った。
やがて日が陰ってきた。嵐が来るのかもしれない。しかし、風は吹かなかった。それでも日はどんどん陰っていきついに夜になった。月が明るく光り始めるとフーディーニが目覚めた。
「これはまやかしの夜だ。そうに違いない」
フーディーニはそう言うと棺桶の蓋を閉じようとした。とそこに、今までに見たこともない生き物が現れた。
「フーディーニさん」
手を伸ばしたが届かなかった。サエコはたちまち軽い石になった。どんどんどこまでも上にあがっていく。また日が光り始めていた。眩しく照り返す湖面に船底があった。浮き上がった時、その伸ばした手を船の男が掴んだ。サエコは思わず身を屈めた。
「大丈夫ですか?」
「私は溶けてしまったの?」
船の男は少女の空のように青い瞳を見てその身を石のように固くした。
男は自らをフーディーニと名乗った。