生きてるひとはどこかおかしい
生きているひとはどこかおかしいと思う。
心や体の痛みに対して無反応、反応薄になったり
他人をどうでもよいと思えたり
他者の評価を平気でできたり
いつ目の前の相手が死んでもおかしくないのに、
辛く当たったり傍若無人に振る舞ったり
謝らなかったりなど後悔しそうな言動をしたり
世の中の事件やニュースをキャッチアップできたり
それに本気で怒ったり
世の中を変えようと強く反発したり
「つまらない日常」と言いつつもそれを生きたり
文句を言い合って「やりたくもない」仕事をしたり
将来のためと、不確定な未来に今を犠牲にしたり
ぱっと思いつく中でもこんなにも、エネルギーのいることをしてる
変だ。
たぶん、読んでいるあなたも、普段のわたしでも、これを読んだら怒ってしまいそうだけど
生きられている人はどこかおかしい。
生きられない、とやっぱり思う。
他者の痛みが襲ってくる。仕事の無意味さが、自分の不足や生まれの悪さが、頑張らないと他者に迷惑をかけつづけて生きてしまう途方もない辛さが襲ってくる。表面上の人間関係が、すれ違う人の無分別な行為に、親の甘えに、私が決して大事な人間ではないことを目の当たりにさせられる。
生きていることで誰かの助けになるだろうと思う。
店員さんには精一杯の敬意をもって接し、
すれ違うひとにも邪魔にならないようただの通行人Aになる。物が落ちてたら拾うし、困ってる人は助けるし、アンケートの人でも丁重にお断りする。
相手の人生の中に登場するに当たって、相手のことを尊重し、相手がその夜に、少なくともわたしのせいで嫌な思いをして過ごすことがないように。
頑張って、ささやかに、できないことも沢山あるけど、できるだけ頑張ってる。ときおり、笑顔が見られる。たぶん、名前も知らないひとの役に立ってる。
でも、それだけ配慮を重ねても、相手がそうしてくるとは限らない。というかむしろ批判や当たりの的になることが多い。なんでか知らないけど、どうやら思慮の足らない馬鹿女に見えるらしい。
そして、頑張ってても、生きづらくさせる人代表みたいに言われる。
ーーお前のようなのがいるから加害者みたいになる。頑張ってないように見られる。ーー
厳しい眼差し、ひどい扱い、悪口、陰口、強い非難の言動、否定
どうやら羨ましいらしい。でもわたしは頑張ってこうなってきた。貴方にも事情があるとはいえ、自身の感じた劣等感をぶつける的に、私がなってしまうのはなぜなのでしょう?
人よりすぐれているから
優しく見えるから
なんでも受け入れてくれそうだから
と言われたことがある。
でも、わたしが聖女でなくゴミ箱(捌け口)になるのはどうして?ゴミ箱だって大切な役割だけど、器は変わらないのにどうしてあの花瓶は大切に磨かれているの?
わたしが大事にされないのはなぜ?
被害者の辛さがわかるから、自分が加害者になるなんて耐えられない。自分の加害を許せない。
加害にならないよう、自分の基準ではあるけれど気をつけ続ける。これが私の最期になっても、たとえ一期一会の貴方にとってもただの通行人Aもしくは素敵な人と映るように。
でも生きてる限り誰かを傷つけてしまう。相手の悲しい顔やきゅーっとした雰囲気や感覚を思い出しながら、それが自分でもたらしてしまったことの悲しさと、怒りと、生きていく上でどうしようもなく必須なその感情から痛みを覚えて動けなくなる。
生まれてこなければよかった、ではない。
私が生まれてくることが加害であった。
きっとだから、つらい思いをしたり、親まで辛く当たられたり、辛く当たってもいいと思われるくらい生きていく上で枷になるような要素ばかりもって生まれてきたのかもしれない。
天才にもなれなくて、
聖女にもなれなくて、
普通のひとにもなれなくて、
ひどいひとにもなれなくて、
馴染めない場所しかない
居場所はない
みんな少なからず、傷ついている。
きっとわたしより大変な思いだってしてる。
わたしより生きづらい人だっている。
悲しさに打ちひしがれてる人もいる。
でもどうしてみんな生きられるの?
この枷と心の痛みに、到底耐えられ続けると思えないよ。
きっと、生きてる人はどこかおかしい。
みんなどこかの痛みを感じないようになってる。
自分の心の痛み、相手の心の痛みを感じないように。
いつ死ぬかわからないという戒めを忘れてる。
でもそれがいいんだ。生きていくためには。
それができないから、わたしは
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