【#創作大賞2024 #恋愛小説部門】『制服にサングラスは咲かない』15章
ーーお、泣き止んできたな、ほらもう一本やるからよ、外で煙草でも吸ってきな、男泣きのあとは、そういう儀式が必要なんだよ
僕はゲンジさんの言葉に押されて外に出た。
相変わらず、人工的に作られた町になりかけてなれなかった人気もないけれどしっかりと整備されたこの場所から見る森は、張りぼてのように見えた。
僕はツネさんからもらった煙草に火を点けて、煙をはく。
胸の中ヘドロが全て、煙となって出て、細く宙に蜷局をまき、やがて星と星の間に消えていった。
すっからかんだ。
今までの僕はすっからかんだ。
そのことに、不安も感じる。
急激な変化に心がまだ追い付いていない。
不安はそれだけではない。
全部吐き出したようなつもりになっているけれど、時間が経ってしまえば、また今までと同じような自分になってしまうのではないか、という不安だ。
きっと、何もしなければ戻ってしまう。
でも少しつでもあがいていれば、いつか、あがいた方向の自分になれるのだろう。
予感もある。
ゲンジさんの言葉を思いだす。
ーー全うしろ、頑張らなくていい、ただ全うしろ
点滅した信号機のライトに沢山の虫が集まっているのが見えた。
僕は煙草を吸い終えて、中に戻った。
「おかえり」
「すいません、何本も頂いてしまって、あれ」
「そう、下戸なんだよね、ゲンジさんって」
ゲンジさんはテーブルに伏して鼾をかいていた。
「そうなんですか、じいちゃん、強いのかと思ってました」
「毎回こうなるから、気にしないで、くつろいでってよ、もう少ししたら二人とも送ってくからさ」
「あれ、もしかして、じいちゃんが言ってた代行の宛ってツネさんのことですか?」
「代行の宛って……御覧の通りさ、ゲンジさん下戸でしょう?店に寝かせとくわけにもいかないから、毎回しょうがなく送ってるだけなんだけどね」
「立ち悪いですね」
「そうそう、立ち悪い」
僕とツネさんは笑いあった。
どこか安心するような愛嬌がツネさんにはあった。
「お酒のおかわりいる?」
「えーとじゃあ、同じビールで」
「あ、ちょっと待って、焼酎とか飲める?」
「あ、はい、飲めます」
「あちゃーすっかり忘れてたよ、ていうかゲンジさんも忘れてたんだけどさ」
「どうしたんですか」
「いや、えっとね、随分前なんだけどさ、ゲンジさんがお酒飲めないのにさ、ボトルキープするとか言い出しちゃて、それがあるんだよね」
「え、そうなんですか?なんでじいちゃん急にそんなこと言い出したんですか?」
「うんとね、なんだったかなぁ、確かいつか、誰かと飲みに来るときのために、とか言ってたかな、俺が認めたやつを連れてくるとか、そのときはね、結局10年くらい誰も連れてきてないからさ、ボトルだけキープされてんの」
ツネさんは声を出して笑った。
「もし、よかったら飲んでみない?ゲンジさんも忘れてるけど、お孫さんがその焼酎を飲んだってきいたらゲンジさんきっと喜ぶよ」
「そうですね、じゃあ頂いてもいいですか?」
「飲み方どうしよっか」
「ロックでお願いします」
「おぉーいけるねぇ」
いつも焼酎を飲むときはお湯割りや緑茶割りだけれど、本人は忘れていたとしてもゲンジさんが温めてきた焼酎の一杯めは、なんだかロックで飲みたいと思った。
「はい、お待たせ」
「ありがとうございます」
僕はロックグラスに入った、焼酎を一口飲んだ。
味は当然焼酎。僕には焼酎の良し悪しがわかるほど飲んだ経験はない。
けれども味わいは感慨も相まって抜群に深いものがあった。
ゲンジさんが何年も前に、誰かに呑ませようと思ってとっておいた焼酎と席。
当時はただの気まぐれだったのかもしれない。本人もツネさんも忘れてるくらいだから、そのあとに話題にも上らなかったのかもしれない。
歳月が流れ、その席には僕がいて、焼酎を飲んでいる。
ゲンジさんは僕を孫だと言ってくれる。はじめこそ不信に思っていたが、その言葉に偽りがないことを今では知っている。
もっと長く、ここで暮らしていきたい。
借りれる家があったら、そこを借りて、畑をもって、根を張って大地とともに命の芽吹きのなかで、アジサイと齢を重ねる。
もしもアジサイが一人でどこかへ行きたいと言ったら、寂しいけれど、僕は黙って見送る。
そういう人生があったら素敵だ。
「おいしいかい?」
「今まで飲んだどんなお酒よりおいしいです」
きっと、一生忘れないだろう。
50年の時が流れて、僕が知っているあらゆるものが過去になってしまったって、この焼酎の味は忘れない。
「それはよかった、あ、煙草も好きに吸ってね」
「はい、ありがとうございます」
僕はツネさんの言葉に甘えて、もう一本煙草に火を点けた。
これで計3本目。
肺が煙で満たされる。
泥みたいな労働後の疲労感を拭うように、憤りや不満を僅かにでもやりすごすように吸う煙草ではない。
今日の煙草は、なんだか、僕が人間に、そしてちょこっとだけ大人になったことを教えてくれる、生きた煙草だ。
こんな気持ちで煙草を吸ったことなんて、一度もなかった。
「よほど気に入られているんだね、ゲンジさんに」
ツネさんも煙草を吸いながらそういった。
二人分の煙がステージの演出みたいに証明に被さっていく。
ツネさんの言い方に僕は違和感を感じたが、その正体はわからなかった。
「まあ、そうですね、ありがたいです、こんなに良くしていただいて」
「いや、本当にうれしいんだよ、何かきっかけでもあったの?」
きっかけ、と言われても僕には全く思い当たるふしはない。
なぜなら、僕は勝手にゲンジさんの納屋に侵入し、備品にも手を出しながら、寝床を整えたりしていたのだから。
持ち主がいないようにも思えた、というのは持ち主がいた今としては言い訳にもならない。
「いや、心あたりないですね」
「本当に?あぁ、ごめんね、あのゲンジさんがさ、孫だって君を言ったとき、驚いてね」
そうか、この人は、僕が孫でないことなんて最初から知っていたのか。
さっきの違和感の正体がわかった。
僕を孫前提で話していなかったからだ。
「やっぱり、知ってたんですね」
「ん、まあね、でもいいかい、この人はね、簡単に人を孫なんて呼ぶような人じゃないんだ、もっと難しい人なんだよ、でも君がきっとちょっと変えてくれたのかな」
「それも心当たりないですね」
「心当たりがなくたって、そうなのよ、すごいことだよ、人の心をね、僅かでも変えるってね、ほら砂時計あるでしょ、いつしかね人は、砂時計をひっくり返さなくなっていくんだよ、どこからか時間が止まって、どこからか変化を認めない、でも人は誰かに接することによって、自ら砂時計をひっくり返すことがあると思うんだよね、それって簡単じゃないよ、どういうきっかけであれ」
僕らは煙を吐き出した。
今ならツネさんの言う事がよくわかる。
僕の砂時計もひっくり返った。
永遠を思わせる程、鈍くなった過去の砂を、僕はこれから下に落として、未来の砂に混ぜ合わせなくはならない。だから僕は全うしたい。人生を。
「みちこ……」
横で寝ていたゲンジさんが、寝言を言った。
鳴いているような、うなされているような声だった。
僕はゲンジさんを起こそうと思ったがツネさんに優しく止められた。
「毎年だよ、この日になると、酒を飲んですぐに寝て、最初の頃はね、起こしていたけど、今ではどうであれ夢の中で奥さんに会えているんだなってことを考えると起こせなくなってきたんだ」
「え、それって」
「そう、ゲンジさんの奥さんは、もう亡くなっているんだ」
「そうなんですか」
焼酎を一口。苦く感じた。
「命日なんだよね、今日、だからそれにも驚いたんだ、奥さんの命日に君を孫といって連れて来た、二人には子供がいなかったんだよ」
僕は色々な説明を省略して、ただ家出をして、ゲンジさんの納屋を勝手に使い、次の日の朝にゲンジさんに見つかったことを説明した。
ツネさんは驚いたように目を見開くと、声を出して柔らかく笑ったあとで、そうだったんだ、と繰り返した。
「昔の自分を見たんだね、君とムラサキちゃんのなかにさ」
「どういうことですか?」
「ゲンジさんはね、結婚するときにね、駆け落ちしたんだよ、着るものも持たず、お金も持たず、ただただ、遠くへ行って二人で生きようとしたんだ、それで君たち二人みたいに人の納屋で寝てね、見つかって大目玉、まぁ結局結婚は許してもらったんだけどさ、昔の自分が重なったんだね」
「そんなことがあったんですね」
「まぁ人は外側からだけではさ、なんていうか、わからないよね、誰だって何かを抱えているんだよね、夏目漱石も言ってたでしょう?なんだっけな、呑気と見える人々も心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がするって」
もう一口飲んだ焼酎のグラスがテーブルに当たって、コンっと音をたてる。
きっとこれが悲し気な音なんだ。
お酒を飲む人たちを考えた。
酔って明るくなっている集団のグラスの底にも悲しさの垢がついていて、皆飲むたびに騒がしくなっているのは、グラスを置くたびに、その垢が落ちるような気がしているからなのではないか。
悲しさを懐かしさにして、懐かしいから物悲しくて、けれどもその日々を慈しむように愛でる。
それを想い出という言葉で、4月の風に預けるカーテンのようにいつまでも優しく包んでいるのだろう。
「今の話は内緒だよ、少し話しすぎちゃったかもなぁ、さて」
とツネさんはカウンターから出てきた。
「そろそろいい時間だから送るよ、ちょっと待ってて」
そのままツネさんが外にでた。
ツネさんがいなくなった店内はまるで時計から針をなくしたみたいに、時間も止まり、店の気配も消えたような気がした。
隣ではゲンジさんが鼾をかきながら寝ている。
夢のなかで、奥さんと会う、か。
それだけ大切にしていたということなのだろうか。
それとも後悔か。
僕も40年くらい経ったら、今をどう振り返るのだろう。
どこかで一人で飲みながら眠って、夢の中でアジサイに会うこともあるのだろうか?
もしかしたら40年一緒にいるかもしれない。いや、それはないか。
人生は長いのかな?短いのかな?
どうしてこんなに哲学的になる?
社会に属して生きていたころは全く考えなかった。
あの頃の僕は毎日何を考えていた?
ぼんやりとしている。
家とバイトの往復。借金で回らない首。惰性で続けているゲーム。
絶えず閉じられた世界のなかで、行く先の定まった真っ暗な線路を無感動に歩いていた。
何を考えて生きていた?考えて生きることが大事だった?
違う。
逃げてきたから、全てわかったこと。
逃げて、人と触れ合い、話、考え、感じ、ゆだねる。
これは皮肉なのか、それとも本来の人生とはそういう広がりや奥行きがあるものなのか。
もしも後者なのだとしたら、僕はずっと何かに閉じ込められていたということになる。
同調圧力や集団主義が生んだステレオタイプの偏見をまとって塞ぎこんでいた。
1つ1つ可能性を残していた道をそういった大きな波のようなもので覆われた気がして、勝手に諦めていたのだ。
だとしても僕には、何かをやり直せるのか?
未だ逃げているのに?
それはアジサイだって同じことなのか?
やり直せる……はず。
逃げることばかりではだめだ。
スタートを切りなおすことだって考えなくては。
僕らはどこへ、どこまで逃げられるだろうか?
焼酎が喉を焼く。
「お待たせ」
ツネさんが店内に戻ってきて、ゲンジさんの肩を担いだ。
「相変わらず重いなぁ、ゲンジさんは」
ツネさんにだけ任せるわけにはいかない。
僕も反対からゲンジさんの肩を持つ。
「お、ありがとうね、助かるよ」
「いえ、僕のじいちゃんですから」
「そうだね」
駐車場には、僕らが乗ってきた軽トラの他に車がもう一台。軽自動車だ。
軽自動車からは誰かが下りてきて、僕らに一礼した。
「おう、やーぼうか」
僕らの間で眠っていたはずのゲンジさんが、呂律怪しく口を開いた。
「やーぼう?」
「ツネの息子だ」
「一人じゃ車ごと送れないでしょう?だから我が愚息も引き連れてね」
近づいていくと姿が見えた。
僕も一礼をする。
「よし、それじゃあ帰るか」
と僕とツネさんに担がれているゲンジさんが言うものだから、みんな可笑しくなって笑いだした。