【#創作大賞2024 #恋愛小説部門】『制服にサングラスは咲かない』20章
ふり返れば、立ち込める入道雲と支配的な山々が、夏と共に遠ざかっていくように思えた。
何もなければもう少し、いられた場所。
居場所のように思えた空間と関係性。
そういったものが、糸がほぐれてみるみる形を失っていく服のように思えた。
僕らの乗った車が走れば走るほど、糸は伸びて、やがて失われる。
いつか、ここで過ごした日々が、霞のように消えていってしまうような気がした。
もしあの場にビーチサンダルがいなければ、都会から来ていた大学生と交流して仲が深まったりしていたかもしれない。
けれども、どこかの会話で誰かが僕らを怪しむことだってあり得た。
そうしたら、今のビーチサンダルがしたように、ビーチサンダルに代って誰かが僕らを通報する未来だって十分にありえる。
交流を恐れながらも、求めてしまっている時点で、もうそのリスクはあったのだ。
リョートさんの人の懐に入る才能に僕はやられてしまっていたのだからなおさらだ。
彼と話していると、自分がまるでこれから本当にリョートさんと遊ぶかのような錯覚を覚える。
ああ、いいやつだな、と素直に思った。
他の大学生だって、嫌な人たちはいなかった。
それは現段階ではという意味だけれど、人間なのだからある程度話せば、つまるところ、互いを理解しよう善処するのではないか。
なんちゃって人間不信や人間嫌いを公言していた僕から脱却した僕は、そんなことを考えた。
けれども、ビーチサンダル、あれはそういう次元の人間ではない。
彼の異常性は手に取るようにわかる。
ひしひしと伝わってくる性への執着と怒りの歪さは、到底話してどうにかなる問題ではない。
彼は彼の世界のルールで彼一人で生きている。
僕はそう思った。
今頃大人しく畑作業をしているだろうか?
携帯はあえて開かない。
「リョートには連絡しておいたからよ、ちょいと野暮用で、遅くなるかもってな」
車が信号で止まった時に、正面を見ながらじいちゃんはそういった。
「ごめんなさい」
「ごめんも何もいらん、何も聞かん」
もうじいちゃんは、先ほどの警察官が言っていた殺人を犯した女子高生がアジサイであることを知っているのだろう。
そして、僕が一緒に逃げている男だってことも。
それなのに何も言わない。
「お前も聞いていたと思うんだが、俺は警察官だったんだ」
「全然知らなかった、聞いたことなかったもんね」
「そうだろう、今じゃ想像つかんかもしれねぇが、この世にはびこる悪1つ許さないみたいな熱血だったかな、妙な責任感と使命感を帯びて毎日家にも帰らずに、仕事に明け暮れたよ」
「そうなんだ、そんなに一生懸命に働いていたのに、どうして辞めちゃったの?」
信号が青になる。エンジンの唸りと反比例して初速はゆるやかだった。
「妻が死んだときもな、仕事だったんだ、いわゆる家庭を顧みない働き方で、そのせいで子供を産むタイミングも失い、妻が亡くなったときも立ち会えなかった、俺はそこでようやく気が付いたんだ、アイツが何一つ俺に文句もいわなかったことにな、それで俺は警察をやめたんだ、アイツが生前、退職したら二人でゆっくり畑仕事がしたいって言ってたのを、ある日急に思い出してな」
「ごめん、僕、ツネさんにじいちゃんの奥さんの事少し、聞いちゃって」
急なカーブを減速して回る。荷台で風を浴びるアジサイがまるで初めてじいちゃんの車にのっていた時のように見えた。胸の一部が懐かしさを覚える。
「そうかそうか、いいんだ、お前には聞いてもらいたかったしな、お前が聞いたのはどこまでだ?」
「駆け落ちして納屋で眠って、それがバレたところまでかな」
じいちゃんの悲し気な笑い声を初めて聞いた。
大人が傷を負った静かな笑い声だった。
「あの時に納屋でお前らを見つけた時は、しこたま驚いたな、まんま昔の俺とアイツみたいでよ、だから放っておけなかったんだろうな、アイツに対する罪滅ぼしかもしれねぇ、まぁそれだけじゃなくて、俺は家族ってやつをやり直して見たかったんだな」
「そのおかげで、僕は変わった」
じいちゃんは一度僕の目を見た。
「いい目だな、もう死んでもいない、迷ってもいない、泥をかぶりながらも真っすぐな目だ、あれからいい男になったじゃねぇか」
じいちゃんにガシガシと撫でられた頭はボサボサになった。
「しこたま考えたんだ、色んなことを」
「そういう目をしてる男は強いのさ」
「僕は、まだじいちゃんって呼んでいいのかな?」
「バカなこと言うな」
「うん」
僕は何も聞かんといった、じいちゃんの配慮を無視して、これまでのことを話した。
これまでというのは、自分の生い立ちとか親の借金とか親に捨てられたこととか。
それからアジサイが犯した罪の事、二人で逃げいていること。
僕は、せめてこの人には誠実でいたかった。
僕を孫だと言ってくれた、この人の孫であるために必要なことだと、勝手に思った。
きっとアジサイだって同じことを考えているだろうと僕は信じている。
じいちゃんは最後まで黙って話を聞いてくれた。
話し終えた後で、それでも何も言わずに、僕の頭をガシガシとまた撫でた。
22歳になって、頭を撫でられて胸が熱くなるなんて、少し恥ずかしいかもしれないけれど、僕はそれが今でもお前を孫だと思っていると言われたような気がして、本当だったらこんなことに巻き込んでしまった罪悪感を抱かなければならないのかもしれないのに、どうしてか嬉しかった。
22歳になって人間は繋がりを必要としている、それもどこまでも、という事に気がついた。
蛍。
蛍を思った。
一匹だと寂しい光。
数匹でもまだ淡い。
蛍の群れ。
そうして僕らはようやく、一つの生命体のようになる。
誰かの灯で誰かの道が照らされて、また誰かの灯で自分の道が照らされて、
こんなにも短い人生のなかで、互いに光りあうことで生きていることをごくわずかな時間に対する唯一の対抗手段にして証。
どれだけ集まっても泡沫の光。
でも独りじゃない。
きっと僕ら人間は全員、蛍の生まれ変わりなんだ。
「もう少しでつくぞ」
車で随分と走った。
未だに辺りは山に囲まれているけれど、あきらかに背の高い建物が増えてきた。どれもが旅館に見える。
整備された細道に入る。
両サイドには旅館の連なり。
旅館から借りた浴衣で出歩く人々。
若いカップルのような組もいるけれど
ほとんどがお年寄りだ。
次第に街灯よりも、旅館の店先や頭上に張られた提灯の赤く滲んだ光に辺りが包まれていく。
どうしてか、その光景が、永遠に夏の祭りの後が続いているように見えた。
「ここは?」
「温泉街だ、昔、アイツと来たことあるんだ、まぁ新婚旅行は熱海だったがな」
「そうなんだ、なんだかじいちゃんと所縁のある場所って思うと感慨深いなぁ」
「そうだろう、お、あれ見てみろ、あれは多分最近できた、足湯だな、結構遅くまでやってるって話だ、あとから紫と来てみろ」
「そうなんだ、足湯って入ったことないんだけど、それなら温泉でよくない?って思っちゃうんだよね」
「足湯には足湯なりのなんか、いいもんがあるんだろうなぁ、俺も知らねぇが、ほら服を脱がなくていいとか」
「確かにそれはあるかも、あとで浸かってみようかな」
車は特段大きな旅館の入り口で止まった。
見上げると20階はありそうだった。
アジサイも荷台から降りた。
「奇麗なところだね、どこなの?」
少し疲れた顔をしている。
「温泉街だってさ」
「そうなんだ」
「おい、お前らちょっと一緒に来い」
「車ここに置いておいて平気なの?」
アジサイが尋ねる。
「ちょっとくらい平気だ」
僕とアジサイはじいちゃんのあとに続いて旅館のなかへ入った。
受付はすぐ左。
じいちゃんはずんずんと進んでいく。
僕とアジサイはあまりに広いエントランスに感嘆しながら、ちょっと遅れてついていった。
受付の人が受付といった表情でじいちゃんに「ご予約は?」と聞いた。
「ない」
じいちゃんがあまりに清々しく、そういうものだからその場にいた人全員がずっこけそうになっていた。
「だが泊めてほしい」
「え」
受付の人が困っている。
「支配人のタチバナを呼んでくれ」
「はぁ、支配人のお知り合いの方ですか?」
「いいから、ゲンジが来たと言えば飛んでくるさ」
受付の人は怪訝そうな表情を隠さずに受話器を耳元につけると、おそらく支配人の部屋の番号にコールした。
ーーあ、もしもし支配人、はい、はい、失礼しました、今打ち合わせ中でしたか、はい、はい、用件ですか、はい、はい、えーと入り口にゲンジさんとおっしゃられる方が来ておりまして、何やら支配人にお話があるようです、はい、はい、え?すぐに来る?打ち合わせは大丈夫なのですか、あ、はい、承知しました。
ゆっくりと受付の人が受話器を置いてから、さらに多くの疑問が尽きないという顔でじいちゃんを足から頭まで見ている。
何者なのだ?と顔全体で見定めているようだった。
それから間もなく、長身細身のスーツ姿、オールバックの清潔感のある40代くらいの男が手もみしながら近づいてきた。
まるで計算高いキツネみたいな顔だなと僕は思った。
「あぁ、これはゲンジさんではないでしょうか、いやはやお久しゅうございます、その節はどうもありがとうございました」
「面倒くせぇごますりはいいから本題に入るぞ」
「はい、お伺いいたします」
「一室借りたい、予約はない、以上」
「あぁ左様でございますか、ゲンジさんのお頼みであればすぐにでも部屋をと言いたいのですが、えーと大変申し上げにくいのですが、あいにく本日満室でして……」
「こんなでかい旅館が満室なんてことあるか、キャンセルでも元からの空室でもあるだろうが」
タチバナさんは中腰かと思うほど、体を折って、相変わらず手もみしながら、はい、はい、と丁寧に話を聞いているように見えた。
けれどその分、どこか人間味がなく、何を考えているのか読めない。
「いえいえ、そういったことも稀にはありますが、本日ばかりは時期が悪いですね、現在旅行シーズンですからね、何卒本日のところはお引き取り願えないでしょうか?」
「そうかい、お前さんがそういう態度なのはよくわかった、よくな、だがなタチバナ、あの件はまだ時効にはなってないぞ、書類も何もかも俺の手元にある、それだけ伝えとくぜ、じゃあな」
とじいちゃんが背中を向けて歩き出した瞬間、タチバナさんは人間離れした速度で、じいちゃんの正面に回ってきた。
「あぁ、ちょうど思い出しました、確か数時間前に一部屋キャンセルがでたような」
「随分とちょうどいい記憶だな」
「打ち合わせをしていたので、そのことばかり考えて失念しておりました」
「で、部屋は借りれるのかい?この二人を泊めてやってほしいんだが」
「ほう、ゲンジさんとそちらのお二人はどういったご関係で?」
「孫だ、それで空いた部屋借りるぞ」
「もちろんでございます、何よりゲンジさんの頼みですから無下になんてできませんよ」
「話が早くて助かる」
「いえいえ」
タチバナさんはカウンターの中に戻り、何やら手続きをして、僕らに鍵を渡してくれた。
「支払いはあとで、俺のところに電話かけてくれ、孫たちが泊った分俺が払うからよ」
「ツケですか?」
「おう、何か問題があるか?」
「滅相もございません、では後ほど、ゲンジさんのご自宅に連絡差し上げます」
話しがまとまったように思ったので、僕は荷物を持った。
ここでじいちゃんと別れることになる、という実感が今来た。
アジサイは荷物の中からカメラを取り出した。
「じいちゃん」
「どうした紫」
「一緒に写真撮ろ」
「そうだな、写真撮るか」
「では私はこれで」
タチバナさんが、立ち去ろうとするがじいちゃんは呼び止めた。
「おう、タチバナ、ついでに写真撮ってくれねぇか、記念に3人で撮りたくてな」
背中を向けたまま数秒、黙っていたかと思うと次の瞬間には笑顔で振り返った。底知れぬ怖さを感じた。
アジサイは、お願いしますと言ってタチバナさんにカメラを渡す。
写真撮影する場所は、どうせなら旅館の前で軽トラと一緒に撮りたいとアジサイの要望があったため、僕らはまた外に出た。
一瞬で汗をかくような蒸し暑さを感じた。
僕らは3人で並んだ。
じいちゃんが真ん中で、左右に僕とアジサイ。
タチバナさんは笑顔を張り付けたまま数枚写真を撮ってくれた。
タチバナさんからカメラを受け取ると、タチバナさんは旅館のなかへ戻っていった。
その瞬間だった。
アジサイが
「じいちゃん」と言って胸の中に飛び込んでいった。
じいちゃんが優しく受け止める。
アジサイは、もうじいちゃんと会うことはないということに、気づいている。
僕はじいちゃんの顔を真っすぐ見られなかった。
「紫、お前のことは全部コイツから聞いたよ、でもな、じいちゃんはお前の味方だ、紫は何も悪くない、じいちゃんはずっと紫の味方だ」
「ごめんさない」
「お前もすぐに謝る子だな、謝る必要なんてないんだ、絶対にまた遊びにおいで、待ってるからな」
アジサイはなかなかじいちゃんから離れなかった。
当然だと思う。
ここで離れるということは、僕らはもう二度と生きては会えないということに近い。
離れるということは、この人を過去に押し流してしまうことに他ならない。
僕らは死ぬまで、何人と近づいて、何人と遠ざかっていくのだろう。
足し算の次はすぐに引き算が訪れる。
僕らはどうして、特別を特別と、奇跡を奇跡と思えないのだろう。
例えば1800年には何人の人が生きていたのだろうか。
でももう誰一人としてこの世にはいない。
沢山の人々が生活をしていて、色々な会話があって、個々に好きな食べ物や嫌いな食べ物があって、一人一人が夢に近い希望を持って、愛し合って生きていたはずなのに、その人々はどこへ行ってしまったのだろう。
僕らもやがてその一部になってしまう。
その不思議さに僕はたまに気圧される。
どうあがいたって逃げ切ることは出来ない。
だから、大切なんじゃないか、だから命なんじゃないか。
だから、人の人生なんじゃないか。
だから僕らは懸命に生きるのか、生きて行かなくてはいけないのか。
人生をもっと足掻かないと、何をしても過去になってしまうのだから。
僕は気がついたんだ。気がついたんだ。
気がついてしまったんだ。
自然と僕もじいちゃんに抱き着いていた。
じいちゃんの白いTシャツが赤い提灯の光で照らされている。
「おうおう、困った孫たちだな、おいおい」
優し気な声だった。