【#創作大賞2024 #恋愛小説部門】『制服にサングラスは咲かない』5章
一歩進むだけで、僕は孤独になる。
僕の一歩の間に、他の人は5歩も10歩も先を行き、誰も彼もの背中が小さくなって、カゲロウの果てに消えて行ってしまうのを僕は知っている。
それなら進まない方が、僕の前に他者は姿を現さない。
はじめは精神的な話だったのだけれど、22年の歳月のなかで、未だにこの世界のあらゆることをうまく呑み込めず、折り合いもつけられないのが自分なんだと悟った時には、物理的にも誰かと歩くことが苦手になっていた。
ただ、目的地まであるくだけじゃないか。
でも例えば夢のなかでライオンみたいな大きな犬に、強くお尻を噛まれたとする。夢は現実の世界より生き生きとしていて、臨場感があって、有名な画家が描いた偽りの真実みたいな顔をしている。
僕らは夜中の3時に飛び起きて、胸に手を当てる。心臓が命の取り立てみたいに激しく打ち付ける。もう一度眠れるかも怪しい。さて、苦も無く眠りについた。
起きて、学校へ行ったり、会社へ行く。都度すれ違う犬がなんだか怖い。
簡単に言ってしまえば、僕の心はより強化された心象がフィジカルに出てしまったというわけ。
だからこそ、今のこの状況が不思議で、不慣れで、遠ざからなくて、不ぞろいだけれども隣で、一歩足を進ませるアジサイのローファーをぼんやりと眺めてしまう。
僕が一歩、アジサイも一歩。
君はなんとも思っちゃいないのかもしれない。
学校の廊下や帰路や移動教室で誰かと肩を並べている君には理解できないかもしれない。
僕は今ね、なんだか、本当は手に取って見たかったけれど、すっぱいとあきらめて素通りしたブドウの木の下に戻ってきたような気がしているんだ。
「そんなに俯いてどうしたの?」
足を見ていたとは言えない。厳密には靴をなのだけれど、それだって、上手く言葉にすることができなければ、僕が変態みたいではないか。
「ああ、あんまり人とであることがなくて、どこを見ていいかわからなかったんだ」
「22歳にもなると友達と遊ぶ暇もないの?」
なにやら、棘があるような言い方だ。僕をからかっている。
「アジサイだって、OLが過去から取り出した制服に袖を通さないと誰かと遊べないじゃないか」
「現役だからね、私、学生証もあるよ」
「逆に22歳の男が男子高校生を装ってゲームのほうがあれか、少しダサいか」
「ほんのちょっとね」
アジサイは嫌味のない笑みを浮かべた。
初めて対面したのに、想像以上に緊張しないのは、アジサイが持つ独特な柔和を含んだ非現実的な雰囲気のおかげなのかもしれない。
とりたてて主張はないけれど、きちんと根を張った小さな花のよう。
「さ、今日はうんと遊ぶよ」
黒いルーズソックス。
明るい青を基調としたチェック柄のスカート。
白い夏服用の半袖シャツ。
赤と白のストライプ模様のリボン。
紺色のニットベスト。
突き抜けて女子高生。
僕の生きている世界ではとっくに絶滅したと思っていた。
「入園したはいいけど、なにしよう?」
「まずは、ありがとう、だね、まさかツリバリが払ってくれるとは思ってもなかった」
なんで、僕が払うとは思わなかったのだろう?貧相な見た目だろうか?
だめだすぐにうがった見方をしてしまう。被害妄想も甚だしい。屈折した僕の悪い癖。
それにさすがに22歳の男が女子高生と割り勘は、いつ今日の日を振り返っても簡単に自己嫌悪に陥りそうだったから払った。
僕は間違いなく、アジサイのためにではなくて、僕自身の将来の名誉のために払ったのだ。
女子高生と遊んだけど割り勘した、よりも女子高生と遊んだ、勿論お金は僕が持った、の方が響きは怪しいけれどダメージは少ない。
むしろ払わせて頂いた、に近いかも。
「いえいえこちらこそ」
「なんで、ツリバリが頭下げるの」
と控えめな笑い声。
やがて笑い終わると、右手の親指と人差し指で顎をつまみ、真剣なまなざしで、うーんと唸り声をあげはじめた。
「ツリバリって絶叫系、大丈夫な人?」
「どうだろう、わからないなぁ」
「遊園地あんまり来たことないんだ?」
「小さい頃に何回かあるけど、とっくに記憶は薄れて砂漠の砂の一部だよ」
「ツリバリはリアルでもツリバリしているね」
「そう?」
「そうそう、それじゃ、まずは軽い絶叫系に乗ってみようか、それで、ツリバリがさ、絶叫系乗れるかテストしてみようよ」
アジサイが一番手前に見えるジェットコースターを指さした。
僕は自分が絶叫系に乗れる、いわゆる大丈夫な人間かどうかをテストする前に、アジサイが指さしたジェットコースターの錆びやそれらを含む見捨てられ具合の方が心配だった。
僕らは閉演した遊園地に忍び込んだのだっけ?
いままでどうやって、この遊園地は生き延びてきたのか。
かつては、誰かの思い出や休日の楽しみであったはずなのに、動いているものすべてがキーキーと関節が痛んだような音がしそう。
「行くよ、ツリバリ」
今日はうんと楽しまなくちゃ、と僕の前を歩くアジサイが呟いた。
僕はその逆だった。
今日を楽しめる感性が僕にはあるだろうか。
アジサイはこんな僕と遊ぶことによって得られる楽しさなんてあるのかな?
別に面白い話題もなければ、話せるような日常もない。
家は全く掃除していません。
アルバイトではよく注意されます。
趣味はゲームです。
友達と遊ぶこともないです。
僕はジェットコースターの受付に行くまでの間、進むごとに自分が嫌になっていった。
「メンテナンス中だって、15分待てば乗れるってどうする?」
「どうしよう」
結構急にどうすると言われても、遊園地なんてほぼ来たことがない僕にはさらりと代替案を出せるような知識も経験値もない。
「待とうか、これがやっぱり一番怖くなさそうな絶叫系だし」
アジサイにつられて周囲を見渡すと、このジェットコースターのメンテナンス終了を待っている家族連れが数組いて、僕はそういうことか、と思った。
「これ、子供用なんだ」
「今気づいたの?」
いたずらっ子みたいな笑み。
僕も釣られて頬が緩んだ。
15分後、係員がメンテナンス終了を待っている家族連れの近くまで生き、再開する旨を伝た。僕らの方は一切見てこなかったけれど、このジェットコースターは大人も乗れるのだろうか?
大人と子供が一緒に乗れるような作りなら、僕も乗れるか、その場合、22歳の男と女子高校生の組み合わせは、少し歪には映らないだろうか?
乗る気満々なアジサイが、ベンチから立ち上がった瞬間
「雨?」
「大粒だね、結構降るかも」
見る見るうちに雨は大降りになってきた。
「夕立だ」
「夕立にしては早くない?」
「ツリバリ、来るとき天気予報みてきた?私見てなくて」
「うん、雨予報だったよ」
「それじゃん」
係員が再び動き出した親子連れのところへ近づき、
この雨では稼働できないと叫んだ。
つまり、叫ばなくては聞こえないくらいの雨脚になっていた。
僕らは屋根のあるベンチまで走った。
もう、と口ではいいながらもアジサイの声色は笑っている。よく笑う子だと僕は思った。
アジサイの着ている制服が濡れる。学校指定のローファーがあっという間に地面に溜まった水を花火みたいに弾く。
跳ねるように走る。アジサイの笑い声。僕よりもずっと早い。さすが現役。
やや、距離ができて、アジサイが振り返る。濡れた顔を手で拭って、微笑む。
遠雷。
僕は22歳なんだと、苦しくなった。もう戻らない僕の青春の影に、アジサイはいるのだと思った。
それはやはり恋愛とか、友情とかそういう言葉で位置付けられる表面的な青春ではなくて、この時にしか感じられない時間への無限の密度の意味での青春だ。
どうしてか、振り向きなおして前を走るアジサイが、もう僕の方を見ずに、どこまでも、どこまでも遠くに走っていってくれたら、と思った。
やっと、屋根のあるところについた。屋根というよりは庇か。
座れるようなところはない。なぜベンチは屋根の下にあることが少ないのだろう?
いつか営業していたであろう軽食屋の庇。
肩がつくかつかないかの距離。制服から柔軟剤の香りが湿気をおしのけて困ったように広がっている。いや、困っているのは香りにくらくらとした眩暈を感じた僕か。
「随分な雨だね」
「本当にね、参った参った、これから雨、上がるかな?」
アジサイの視線は分厚いタラコみたいな雲に預けられた。
天気予報はなんていっていたっけ?
最近、興味関心を抱く範囲が少ないからか、入ってきた情報を長いこと保てない。
ずっとぼやけた視界のまま生きているみたいで、60分後とか明日とか未来とか、もう見なくてもいいようになっているのかも。
「雨だったらどうしよう?乗れるものとか限られてくるね」
「うーん、この遊園地はさ、観覧車とかメリーゴーランドとかしか乗れないんじゃないかなぁ、私はどっちからでもいいよ?」
「メリーゴーランドか観覧車かうーん」
「このままじゃ何も乗れないで終わっちゃいそうだから、とりあえずメリーゴーランド乗ろうかなぁ」
「ここから近いかな」
「ほら、向こう側の光あるでしょう、きっとあれだよ、ツリバリは走れそう?」
「うん、走れるよ」
僕の膝は笑っているけれど。
大人になってから、走る事って滅多にないよ。
自分の体だけれど、誰か人の体まで余分に引っ張っているような感覚。
なまった。
「そういえば、今年の夏は花火も見たいなぁ」
拍子抜けだった。体はやや前傾、走り出す手前。
アジサイがぼんやりと言った言葉で、僕は体を引き戻す。
「見に行かないの?学校、忙しい?」
ここにきて、僕はアジサイのことを何も知らないことに気づいた。
他人に関心を払ってこなかった数年のせい。
気になることや、質問というのがぱっと思いつかない。
思いついたとしても、余計な詮索をしないという社会の暗黙のルールに染まった僕は、無意識にアジサイの背景を遮断していた。
他人を知らないでいるという事は、一番に自分を守る手段なのだ。
「うん色々とね、詰まっててさ、ツリバリは?」
「僕は、まぁ、見に行く人もいないし、そもそもあんまり興味もないかも、奇麗だとかも思わないし、音がうるさいなぁくらい」
「やっぱりサバ読み22歳は言う事が違いますなぁ、よくその中身で男子高校生の設定いけてたね、すごい冷めっぷり」
「アジサイは僕が高校生だって信じてたの?」
「どうだろうね、内緒、というかツリバリ見に行く人いないんだったら、私と行けばよかったのにね、去年とかだったらギリギリいけてたかも」
私とか、そんなことを言ってくれるのか。
「それなら来年あるじゃん」
「今年以降、きっと無理だなぁ」
「どうして?」
「メリーゴーランド行こ」
アジサイは、唐突に、また雨のなかへ駆けて行った。
僕も追うようにして走り出す。
やっぱり体が重い。
体重増えたのかも。
どうして、アジサイは今年も、来年、もおそらくそれ以降も花火を見ることが叶わないような口ぶりだったのだろう?
考えたくても、思考がまとまらない。
息が切れる。
メリーゴーランドにたどり着いたときには、そのことについての思考が遠くあるような気がして、僕は言葉を探すのをやめた。
年齢を重ねて少し前までお気に入りだったおもちゃを探さなくなった、人目につかないところで成長していく子供の変化のように。
「ねぇ、ツリバリ」
「は、はい」息が、整わない。
「人生ってさ」
「人……生?」
スケールが大きなものだ。
「ままならないよね」
どんな表情なのだろう。
アジサイの表情は見えている。
でも僕は、それをどんなふうにとは言えなかった。
きっと、いくつもの感情がピザみたいに載せられているのだ。
雨のせいで、幾重にも暗さのベールを潜った淀んだ大気のなかで、明るく浮かび上がるメリーゴーランドと、それをバックにした、淡い光の中でぼんやりと輪郭が混ざって溶けるアジサイ。
「ままならないよ、人生は、でも女子高校生の発言にしては年寄り臭いというか、世の中をしりすぎているというか」
「そうだね、忘れて、私、せっかくだからメリーゴーランド乗ってくるけどツリバリはどうする?」
行き場を失った子供たちの数人がメリーゴーランドで遊んでいた。
親は離れた屋根のあるところで待機。
「僕は待ってようかな、乗ってきなよ」
「本当にいいの?さては恥ずかしいんでしょう?」
「まぁ、さすがにね」
「そんなこと言われたら、私も乗りにくくなっちゃう」
「アジサイはまだ平気だよ、自然自然」
「本当に?」
「うん、本当」
「それじゃあ、乗ってくるね」
「いってらっしゃい」
「はい、いってきます」
アジサイは上品にスカートの両端をつまんで、片膝をおり、お嬢みたいな姿勢で頭をさげた。
なんだそりゃ、と思いながら僕は見送った。
アニメか漫画の影響だろう。
さしずめ、複雑な事情を持った男が女装してお嬢様学校へ忍び込むようなストーリーかな。
「ツリバリ」
「ん?」
メリーゴーランドまでのステップで、アジサイが結構大きな声で僕を呼んだ。
「向こうで待ってていいからね」
つまり、雨に濡れない所で、子供たちの親御さんと並んで待機ということか。
僕は頷く。
アジサイはメリーゴーランド内へ足を踏み入れる。
雨にも負けないほどの豪華な音が差し込んできた。
アジサイは紫色の馬に跨った。
僕に向かって、追い払うようなしぐさをする。
これ以上雨に濡れないように屋根のある所へ行けと言っている。
僕は片手をあげた。映画のなかの主人公が親しい友人と別れるときみたいに。
アジサイは不満げだ。
メリーゴーランドが回りだす。
僕はメリーゴーランドを囲う白い柵に両腕をのせてもたれかかる。
随分と雨に濡れたものだ。でも悪い気はしなかった。
一週目。
アジサイは未だに、不服そうな顔をして、僕にあっちにいけという仕草。
二週目。
アジサイに手を振った。
僕のことはいいから楽しんでと。
ふくれっ面というのか、渋々手を振り返してくれた。そして諦めたのかやがて笑顔になった。
雨に煙るなか、幻想的なメリーゴーランド。
3週目。
僕はアジサイの様子がおかしいことに気づいた。
僕を見ながら、どうしてか泣きそうな顔をしている。
4週目。
アジサイは、ついには両手で顔を覆って泣いているようだ。
メリーゴーランドで泣いているように見えるアジサイは、怖い夢に怯える子供のように見えた。
5週目、最後の回転でもアジサイは顔をあげなかった。
メリーゴーランドがやがて止まる。
子供たちの夢は一つ終わりを迎える。
僕はアジサイを迎えにいくべきなのか、どうなのかわからず、白い柵にもたれかかったままアジサイがおぼつかない足取りで僕の所へ来るのを待った。
「どうしたの」
悲しいから泣いているのか、泣いているから悲しいのか。
「私、人を殺したの」
それが事実なのか、そうでないのか、そうでないのなら、彼女は何を言っているのか言いたいのかわからないけれど、もしも、メリーゴーランドが回るたびに、人を悲しい過去へと誘っていくものなのだと知っていたら、僕は誰であれ、どんなのんびりしたように見える人間でさえ、乗せようとは思わなかっただろう。