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【#創作大賞2024 #恋愛小説部門】『制服にサングラスは咲かない』12章

星が見えた。
山は夜になるとやはり冷える。
両肩がひんやりと熱を失う。

僕は肩までお湯に沈めた。

砂を蹴るような足音。

「よう、湯加減はどうだ」

「最高です、ありがとうございます」

「違うだろう」

「あ」またやってしまった。僕は改めて言いなおす。

「最高だよ、久しぶりにお湯につかった気分、それに露天風呂なんてそれこそいつぶりだろう」

「そうか、それならよかった、なかなか乙なものだろう、田舎でお手製の露天風呂に入るのは、酒でも持ってきてやろうか?」

「お酒あるの?」

「ビールしかねぇがな」

一瞬だけここまでの道のりで蓄積した神経の疲労を、アルコールの力で分解したい欲求に誘われたが、今ビールを飲んで、酔っぱらって余計なことを話してもしょうがないし、純粋にお酒を飲みたいというよりは、酔いたいに近かったため、僕は首を振った。

「また、今度にしようかな」

「そうか、でもお前、酒はいける口なのか?」

「うん、それなりには、飲めるよ、ワインでもウイスキーでも、焼酎でも日本酒でも」

「悪くねぇな、それじゃあ今度男同士飲みに行くか、俺の行きつけの店に連れてってやるよ」

ゲンジさんは同じ悪だくみを共有した子供みたいな表情だった。
きっと、この人は昔から変わることのなかった童心みたいなものを持ち続けている。だから笑顔や人に対する姿勢や気持ちには人懐っこさがあるのだろう。

「でも、じいちゃん、それって飲酒運転にならないの?」

「そこらへんは心配すんな、ちゃんと代行の宛はある」

「それじゃあ、今度一緒に行こうかな」

ゲンジさんは暫く露天風呂に浸かっている僕の近くに座り、とりとめのない話に付き合ってくれた。
僕がのぼせないような所で話を切り上げて、
「俺は寝る、眠れなかったら勝手に冷蔵庫から酒持って行ってもいいし、庭のベンチに座ったっていい、お前の好きなように過ごせ」としゃがれた声で「おやすみ」と言って家の中に戻っていった。

普段、自分の生活に取り込まれて、生活範囲のことにしか関心を向けられないけれど、どこにだって人の人生はあるのだな、と思った。
想像することは簡単だけれど、その環境でその人がどういう風に過ごしているのかとか、好きなものは何かとか、冷蔵庫の中身は何だろうとは考えたことってあまりない。

人は生きている。
人が生きているから人生がある。
当たり前だ。
昨日まではここに僕らの存在はなかった。
ましてやここで、人の優しさに触れるとは思わなかった。
優しいは怖い。

人からの悪意や騙しや不義理は、お腹の底に力を入れてじっと耐えていればいい。
暴力だって僕はある程度耐えてきた。
ドラマ、映画、アニメ、人を傷つける人だって、何かを見てそこにある優しさをくみ取って涙を流しながら、次の日では職場で相手の人格を否定したり、学校で誰かを殴ったりしている不思議を思いながら耐えてきた。

けれど、優しさってどう反応したらいいのか、わからないんだ。
実態もないし、被害もない。
でもそのままだと、落ち着かない。

僕は夜空を見た。昨日よりも月の角がとれているような表情で僕を見ている気がした。
もっとも月は最初から丸いのだけれど。


僕はのぼせるぎりぎり一歩手前まで露天風呂に浸かり、髪を乾かしてから、自室に戻った。

「おかえり、どうだった?」

と先に布団を敷いて横になっていたアジサイが露天風呂の感想を聞いてきた。

「山頂について、ようやく大きな荷物を降ろしたような気分だった」

「また変なこと言ってる、よかったってことね」

「うん、すごいよかった、アジサイはどうだった?」

「私もね、よかったなぁって思ったよ、でも……」

「でも?」

「でも途中で熊とか猪とかに襲われたらどうしようってちょっと怖かった、露天風呂に入ったまま食べられちゃったら、ニュースとしては少しまぬけじゃない?」

「うわ、それ考えてなかった、きっとネットでいじられるんだろうなぁ」

「でも、食べられちゃってもいいくらい、素敵な時間だったかも」

「複雑な気持ちだったわけだ」

「そうだよ、とっても複雑だったの」

僕はアジサイの布団の足元を通って、ベランダに出た。

「あれ、さっき荷物置きに来たとき、ここに灰皿なんてあったっけ?」

「それね、じいちゃんが何か欲しいものあるか?って聞いてくれたからツリバリ煙草吸うかなと思って、試しに言ってみたら持ってきてくれたの、昔はじいちゃんも煙草吸ってたんだって」

そうなんだ、と僕は思った。
ゲンジさんは僕らに二階の南向きの部屋をあてがってくれた。
基本的にアルバイトにくる大学生は一階に泊めることが多いようだから、部屋を離してくれたらしい。
何から何まで感謝してもしきれない。

僕は黒い装飾が剥げている丸テーブルの上に煙草の箱を置いた。
そこから一本だけ抜き取る。
キャンプ用の小さな椅子に座って、煙草に火をつけた。
オレンジ色の炎が僕の右手のなかを蝋燭みたいに照らす。

この部屋からは僕が汗水たらして登ってきた意地の悪い坂道が見える。
すっかり寝静まって、日中のいやらしさなんてどこにも見当たらない澄ました顔。

昨日は肌寒く感じた風も、風呂に浸かり火照ったあとに当たってみると、心地の良い柔らかい夜風となった。

ゆっくりと煙草を吸って、またゆっくりと時間をかけて煙を吐く。
身体の力が徐々に抜けていくのがわかる。だから煙草ってやめられない。
僕はようやく、僕を休めるような気がするのだ。

「ねぇ、ツリバリ、そっち行ってもいい?」

背中から、溶かしたバターみたいなアジサイの声がした。
もう眠いのかもしれない。

「いいけど、煙草臭くなるよこっち」

「別に気にならないよ」

アジサイは暗い畳の部屋からゆったりと歩いてきた。

「そのジャージ結構サイズ大きいね」

「そうなの、でもしょうがないよね、これ数年前のアルバイトの人の忘れ物っていってたし」

1つしか椅子のないベランダで、アジサイは自分の腿裏を両腕で抱き、体育座りをした。僕は椅子と床を変わろうか?聞いたが、彼女は僕の提案をやんわりと断った。

「じいちゃんがね、働くもの食うべからずって笑ってたよ」

「そうなの?それってどういう意味?」

アジサイはおどけたように言った。

「私たちは明日からおじいちゃんの畑仕事やその他もろもろの手伝いをします」

「えーそうなんだ初耳、具体的に何するんだろう」

「明日はなんと人参の種まきです、それからトヨさんの畑の何かの収穫を手伝いに行くんだって」

「トヨさん?」

「うん、近所の人だってさ、今年は息子のシゲハルさんが帰ってこれないから人手が足りてないんだって」

いつのまにそんな話をしていたのだろう。
アジサイって意外と人の懐に入るのが上手いのだろうか?
僕とは大違いだ。

「それじゃあ明日は朝早いのかな」

「じいちゃんが起こしに来てくれるから早く寝なって言ってたよ」

「アジサイはさ」

「うん?」

「人が怖くないの?」

僕は煙草を一口吸った。
アジサイは押し黙った。
いけない話題だったかもしれない。
心当たりはあった。
けれど、ずっと気になっていたことでもある。
煙草をもう一口。横目でアジサイを盗み見る。

「怖いかも」
と困るように微笑むアジサイ。
僕は少しだけホッとした。
それは聞いてはいけないことを聞いてしまったかもしれない気まずさへの予感と、一見、人への恐怖心をおくびにもださないアジサイのなかにも怖さがあったことの両方に安堵した。

「でも、怖いだけだったら、こうやってツリバリと逃げることもなかったよ」

僕の視線は、自然とアジサイのお腹に向けられた。
服の上からではわからないけれど、僕は二度、おおよそ肉親によってつけられた痣だとは信じがたい痣を見ている。

アジサイは自分のお腹を労わるように片手で撫でながらつづけた。

「今頃、どうなってるんだろうなぁ」

「どうなってるって何が?」

「私の家……結構、ほら臭ってたからさ、埋めても、お父さん」

何か飲み込みずらいものを必死に飲み込もうとしているような声だった。

「住宅街だったから、とっくに通報されてるかも、警察の人も私を探しているかもしれないし、ニュースではさ、私の顔が流れてるかもしれないし」

僕は相変わらず何も言えなかった。
アジサイの周りで過ごしていた人々は、彼女に救いの手を差し伸べなかったのだろうか?
不審な匂いでは通報するのに、アジサイの家が異常に騒がしかったり、殴られる音がしたり、少しでも虐待の兆候は感知できなかったのだろうか?

僕は腹にもうもうと憤りを感じたけれど、ふと我に返った。
僕の正義感はどこから来るのだろう?
自分だったら、そんな誰かを助けるような行動をとれただろうか。

自分の人生に絶望しながら灰色の世界をとぼとぼと歩いていた僕の世界に、誰かの悲鳴が流れ込んできたとして、きっと僕は顔をあげることはできなかったし、もしかしたら耳を塞ぎながら通り過ぎたかもしれない。

皆、あれやこれやと自分の人生を守るのに必死なのか。
手の中に水を注がれ、零れないように手と手を強く密着させて右往左往生きなくてはいけないから、他人の手に重ねて、水がこぼれないように穴を塞いでやることなんて、到底できないのかもしれない。

思い出してみろ、すぐに忘れるな。
僕は彼女を救いたくて、逃避行したのではない。
僕が助かりたくて、逃げてきたのだ。

どうして、目的と手段が入れ替わろうとするのか。
どうして、僕はアジサイの心に安らぎを注ぎたくなってきたのか。
これが人の情なのか。これほど人の情というのは粘着質で固執するものだろうか。一種の使命のように。

僕は煙をはく。
ここ数日の目まぐるしさに僕の感情の処理速度が追い付いていないのかもしれない。
もう少ししたら、いつもの僕になる。
そう、もうすこししたら。

冷たくて、人に関心がなくて、自分の事しか考えてなくて、優しくもなくて、自己中心的な自分に戻れる。
違う。そうならなければならない。
そうでないと、僕は自分を守ってやることができない。
余計に踏み込むな。数日おかしいぞ僕。

僕はそう思いながら、横に座ってぼんやりと空を眺めている、僅かに上に傾けられたアジサイの頭に手をのせた。

「きっと大丈夫だよ」

手に伝わってくるアジサイの頭の温かさ。
僕の手の位置がずれた。

「うん」




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