神社巡りの愉しみは道に迷ってなんぼ
昔「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」と言うフランス映画があった。実はこれコメディなのだが全くもって笑えないと言う。ブラックコメディという見方もあるが、そもそも出てくる人たちが皆ブルジョアなので、最初からコメディの要素が想像できない。プチブルな小洒落た話だろうと観ているとなんか違う。話が進むにつれて少しずつそれぞれのシチュエーションにズレが見えはじめてきて、ここにきてやっと「ああ、笑っていい映画なんだ」感。
監督がルイス・ブニュエルなので笑えないのは至極当然なのだが、まともな頭で観ているとただただ疲れるだけなので観ない方が身のためだと思う。ここでこの映画のあらすじを書くなんていう野暮なことはしないが、個人的にはこの監督、きっと女嫌いなんじゃないかと思っている。
だってね、女の描き方がおぞましいの。
前振りにこんなこと書いたのは、けっして映画の話をしたかったわけでなく、邦題に使われている「愉しむ」と言う文字のこと。わたしはこの邦題によってこれを「たのしむ」と読むのを初めて知った。
「愉しむ」には、一般に使われる「楽しむ」とは少し意味合いが違う。
楽しむ
楽しいと感じること、または楽しく感じる物事のことを意味しており、これから先のことを期待して心待ちにしたりする場合も「楽しみ」の方。
愉しむ
自分自身の気持ちで楽しいと思えるような状態のこと。
「愉快」にも使われているように、楽しくて心が弾んだり、心地よいことを意味しています。
神社巡りが好き。
御朱印をもらうだけが目的じゃなくて、祀られている御祭神に呼ばれたような気がしていく場合もある。「呼ばれる」と言うと、わからない人にとっては何バカ言ってんの的に聞こえるかもしれないけど、よく目にする耳にする、妙に気になる、歩いている時たまたま出会う、シンクロする、とか色々な理由から「呼ばれる」感じがわかる。
神様はしれっと人間の感覚に訴えかけてくるので、心静かに穏やかにしていればいるほどに、感覚として受け取りやすくなる。
あそこの神社に行きたいと思って足を向けて、すぐ見つかればいい方で、実はなかなか見つからない場合もある。住宅街の一角にこじんまりと建っている神社などは、今でこそスマホのマップを利用してたどり着くことができるけど、以前は散々探し回っても見つからなくて断念したこともしばしば。
またそこそこ大きな神社であっても、途中道を間違えたり、方向違いだったり、なぜか工事中だったり、入れなかったりして、結果参拝できなかったことも。
そう言うときは、今は必要ないんだとか、縁がなかったんだなと勝手に判断している。
また何年も神社巡りをしていると、神社のある場所がわかるようになるから不思議。神様が降り立つ場所が「鎮守の森」と言われるように、鎮守の森は地域を守っている。
高い場所から下界を見守るようにあるのが普通ですが、平坦な場所であれば、たいがい森のごとくたくさんの木々に囲まれてある。そして空には神聖な空気が流れている。天空から柱(神)が降り立ったように、雲がわれている時もある。
新春に「東京下町八福神巡り」に行ってきた。
知らない場所ということもあり、初っ端から方向間違えたり。疲れて休憩したくても周りに一軒も店がなかったり。バスに乗ろうとしたら1時間に数本しかこない停留所だったり(ありえない)。途中見つけた公園の公衆トイレがまるで救世主のように思えたり。
迷いあり戸惑いあり焦りありと、まさに愉しみを絵に描いたような醍醐味あふれる神社巡りとなりました。
こちらでは写真だけの掲載になりますが、ご興味のある方は Instagram の方に飛ぶとコメントが読めます。