どのみち死ぬなら
コロナにどれだけのイベント、予定が消されたのだろう。私は就活イベントと先輩の追いコンと卒業式と部活の展覧会が消された。
コロナウィルスが新しくて、対処法がまだ分からなくて、とりあえず予防しなきゃいけないって言うのは頭では良く分かってる。でも、全てのイベントを中止すれば皆生き残れるの?ってどうしようもない憤りのような、疑問のようなもやもやした感情がずっと私の中で渦巻いている。私ですらこんなにもやもやするのに、卒業式も卒業旅行も出来なくなった先輩はどれだけの感情を抱えなくちゃいけないのか分かったもんじゃない。そんなの計り知れない。
私は死ぬなら老衰が良いな。そう言い続けてはや幾何年。曾祖母が老衰で亡くなったときから切にそう願ってる。老人ホームで流行った風邪にもかからず、ゆっくりとご飯を食べなくなり、起きなくなり、自然に死んでゆく。私もそうなりたいと思うのは、たぶんその方法が劇レア★★★★★みたいなものだと分かってるから。
世の中には死因はごろごろ転がっていて、ちょっとでもぶつかれば即ゲームオーバー。明日交通事故に遭うかもしれないし、不治の病にかかるかもしれないし、誰かに刺されちゃうかもしれないし、自殺したくなるかもしれない。そのたくさんの死因を掻き分けてたまたま上手いこといってるから生きてるだけなんだと思う。
実際、私は死ぬならコロナに殺されるより先に就活に殺されると思ってしまう。そしてこのままいけば確実にそうなってしまいそう。就活の闇を少しでも緩和してくれるのは、周りにいる人々で、部活の仲間なんか最たる例だから。そんな皆に会えるから持ちこたえられそうだったのに、会う機会が全て消え去った今、(私、いけるか?)と本気で考えた。ちょっと無理な気がする。どうしようね。このままだとどのみち死ぬ。
そういえば、Twitterの誰かの呟きで、コロナウィルスが流行って最初に死んだのはどこかの職員の自殺だ、みたいなのを見た。ほらね。コロナウィルスに殺されなくたって、結局死ぬ人が出てきちゃうんでしょう。いくら疫病の予防をしたってきっと年間死亡者数は変わらないんじゃなかろうか。今必死に身体を守っても、心も守らない限り救われない気がする。卒業式をしないままで新しい環境に放り出される人とか、日々のストレスを癒すはずのライブに行けないまま過ごさなくちゃいけない人とか。子どもを家で見なくちゃいけなくなった人しか報道で取り上げられないけど、精神的にはもっと大勢がしんどいんじゃないかな。
政府の対応を批判したい訳じゃないし、むしろこんな意味のわからない感染症のために色んな人が普段の業務外のことをめちゃくちゃ頑張ってるのは本当に感謝しかない。
でも、私は色々中止されて悲しかった。先輩は、もっと辛い想いをしてると思う。私はたぶんこのままだと想定よりもっと死にたくなる。
この想いをどこに向けたら良いか分からなくて、やりきれない感情を吐き出したかった。
だって、どのみち死ぬなら、
先輩の追いコンも卒業式も部活動も全部参加して、コロナウィルスで死ぬ方がまだ私にとって大団円だなって思ってしまったので。