高校生のゆめを見る
死にそうな3人による部活動の生産性は50代のしょぼくれた教師の生え際ほどしか無かった。
沢山いて邪魔に感じていたはずの同期生はついに3人まで減り、後輩はただのひとりきりで、先人は受験戦争への出兵を余儀なくされた。結果この部活動の人員は、頼りになる2人と、ぴかぴかの若者と、頼りにならないワタシの4人であった。
しかし頼りになるうちの1人は訳あって活動を控えているので、残るは死にそうな3人ぼっちとなったのだ。
誰が見ても絶体絶命の弱小倶楽部であろう。しかしワタシはそれでよかった。
気心の知れた仲間との、ぬるすぎて気味の悪い、どんよりとどこまでもどん詰まりが続くような、蒸し暑い夕焼けの放課後こそむしろそんなものでよかった。
ワタシは楽をした。
同輩の他倶楽部長と言ったら、やれ予算だの模擬試合だの遠征だの保護者会だののことで休日を消費してゆくと聞いた。
親の賃金で学校へ入学し、親のガソリンを燃やし登校して、親の心労によりベッドで眠る日々、ワタシの日々……ただ格好をつけていればよい。親の脛の光を反射させてサイリウムのようにその脚を振り回せばよい。そのまま齧り付けばよい。ワタシは楽な人生を送った。
しかし我が弱小演劇倶楽部でも地区大会への出場は年中行事として執り行わねばならない。
役者、照明、音響、舞台監督。最低4人いなければ舞台を始めることすらできないのだ。しかし我々は顧問教授を頭数に入れるので問題はなかった。
この場合にどう考えても問題があったのはワタシひとりの全てである。
スケジューリング、台本作成、演技、それら全てが壊滅的に出来なかった。
どうしてこうなった?
《割愛》
顧問の入れ知恵と顧問の軌道修正のおかげでワタシないし我が弱小倶楽部は地区大会を乗り切った。表彰台に上がることはなかったが。それでも死人が出なかったことは驚くべき幸運であり喜ぶべき結果であった。「バイオハザード無印のプロローグのナレーションみたいに」という演技指導はこの先の人生で決してまたと出会うことはないだろう。
ゆめの話はここから始まる。
わたしは19才の7月に自死する予定であった。