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おばさんになるということ


これを読んでいるあなたは、今自分のことが好きだろうか。私はそれを今の自分に問いかけた時、間違いなく正面切って「好きだ」と言える。だがこれがもし20代の私だとしたらきっと「好きでもないし嫌いでもない」と煮え切らない返事をしたと思う。しかも「好きなところもあるし、嫌いなところもある」ではなく、「好きでもないし嫌いでもない」と答える偏屈さを持っていた気がする。この言葉からは「これ以上私に立ち入るな」という意志も感じる。


最近の私、32才の私はというと、なんだか信じられないくらい生きやすいのである。それはどうしてなのかをここ最近真剣に考えていたのだが、ある答えに行き着いた。

私は今、「おばさん」に片足を突っ込んだ状態だからである。

「おばさん」と言うと、世間的にはマイナスなイメージを持つ人の方が多いかもしれない。森高千里も「私がオバさんになっても、ドライブしてくれる?」となんだかおばさんになるということがまるで悪かのように歌っている。オバさんにだって助手席に乗る権利はある。(ちなみにこの曲は私の十八番である)

私も若い頃は「年取りたくな〜い」なんて缶チューハイ片手に語らっていたことはある。
もちろん、この記事を読んだ40代の私が「ハハッ、30代なんてまだまだよ、青い青い」とほくそ笑む可能性はあるが、それでも言いたい。


おばさんって、超いいぞ。



もし今の「おばさんマインド」を少しでも分けられるなら、メルカリにでも出品してあの日の私に買ってもらいたい。(タダであげろよ)


それくらい、本当に肩の荷が降りたような生き心地なのだ。では20代の私が背負っていた荷はなんなのか。


一番大きな原因は「可愛い」の呪縛だったのではないかと思う。これは女が女として生きる上でかかりやすい呪い。どこかで「女は生まれた時から本人の意思とは関係なく『可愛さ』の勝負に出される」というのを見たことがある。これが私の中でとてつもなく腑に落ちてしまった。可愛い子は得なのだ。可愛さ故の苦労はあるにしても、「可愛い」という絶対的価値を持った女は強い。その事が私はだいぶ幼い頃からわかっていた。とはいえ、自分にはどこへ行っても得をする可愛さを持った女の子と平等に戦えると思えず、私は「愛想」という武器を持つことにした。頭を使いながら出来ることを出来ないふりしてみたり、甘えてみたり、面倒くさいとは思われないように涙を堪えてみたり、とにかくニコニコしているように努めた。
そうすると、シンプルな顔面の勝負だけでは完敗な私でも「なんとなく可愛い」くらいには思われるようだということがわかった。
何故だか「可愛い」と思われていなければいけないという呪いを、自分が自分自身で一番かけていた気がする。
恋人の有無に関係なく、「出来れば人から可愛いと思ってもらいたい」という考えは常にあり、振る舞い、喋り方、声色、表情、ファッション、私の全ては誰かの為にあった。「自分がどうしたいか」より「人からどう見られたいか」ということの方が先行していたように思う。

とはいえ、人間は簡単に変わることはできない。私の場合、この呪いを解く為には誰に可愛いと言われようと、素敵な恋人が出来ようと、変わらなかったのである。たったひとりの男に出会うまで。

その「たったひとりの男」とは他でもない、息子である。



逆に言えば人生の中で1位2位を争う大イベントであろう「出産」「育児」を経験しなければ変わらなかったほど、この呪いは根深いものになっていたのだ。そういった意味でも、息子は私を助け出してくれたこの上なくかけがえのない存在なのだ。私がこうして健やかで、正しくおばさんになれたのは、息子のおかげだ。

この最大の愛しさを前に、周りの人間からどう思われようと痛くも痒くもなく、世界一どうでもいいとすら思うようになった。逆にどうしてあそこまで頑張れたのだろう。私が生んだわけでもない人間の為に。


年を取るということは、私の中ではとても自由で、健康的で、ポジティブなものだ。確かにシミは増え、肌のハリも20代と比べると劣ってきたようには思えるが、そんなことは些細なことと思えるくらいには今の自分が好きだ。
だけれど、今の自分が好きなのは二十代の頃にもがいて、嫌になるくらい自分自身を見つめた私自身の功績だと思っている。私は今、今までの自分をすごく褒めてやりたい気分なのだ。よく頑張って生きてきた、もうリラックスして生きていいぞと。

常に素の自分で生きるというのはこんなに楽だったのかと思い知らされる。昔のように可愛いと言われる回数が格段に減ったが、誰に可愛いと言われていなくても私という人間の価値は変わらない。以前にもこのnoteに書いた事があるが、私は内面の自己肯定力だけは人一倍あるのだ。

この間、初めて会った仕事の後輩に年齢を告げた時、「えー!もっと若く見えます!」と言われ間髪入れずに「えっ?なぁに!?欲しいものでもあんの?」と答えた自分に驚いた。しかもこの時、表情はしっかりとにやり顔をしている。なんというおばさんとしての模範解答だろう。

ここで「そんなことないよー!」や「ありがとう」ではなく、「そんなに褒めたって何も出ないわよ〜〜」という内容を陽気に答えるのはおばさんでしかない。


だがここでショックは受けない。
寧ろ正しくハッピーにおばさんに近づいている事が、私には嬉しくすら思う。
二十代の頃はなんと言い返していいかわからず言い淀んでしまっていた上司のちょっとしたジョークなどにも、完璧な早さでレスポンスできる。これは、それによりちょっとした不快感を与えたとて、これくらいで私の評価はこの人の中で変わらないだろうという自信からくるものでもある。

出来ればこのマインドで20代を謳歌したかったとは思うものの、前述した通りこれは20代で葛藤し続けた私がいたからこそ得たものなのでやはりあの時はあれでよかったのかもしれない。そしてその頃から「今この選択をして将来的に後悔しないか」を考えながら道を歩んできたので、人から見たら地獄のような恋愛遍歴でも自身は驚くほど後悔がないのも事実だ。

しかし、あまりに丸いおばさんになりすぎてオチのない面白くもねえ話をダラダラと喋り続け若者を困らせるババアにだけはなりたくないものだ。絶妙に尖っていたい。そういうわけなので、スピッツとヴィジュアル系を交互に聴いたりしている。私のi Phoneは私という人物像をきちんと捉えられているのだろうか。日本一プレイリストをおすすめしにくい女だと思う。


これからの人生、更年期ニモ負ケズごきげんなババアでいたい。そしてこれを読んだ40代の私がそっとほくそ笑むことを望む。

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