見出し画像

差別を子供に教えるべきか?

社会で生きていく上で、「差別」と無関係ではいられません。差別について長年腑に落ちずにいたことが、思わぬところで目にした文章でスッキリとしたので、記録。

差別を植え付けられたと感じた子供時代

私が小学生の頃、あるお友達が「私のお母さんは、中国人なの」と話していて、「そうなんだ!日本人じゃないんだー!中国人かぁ!」と反応した日のこと。

その場にいた母に、夜家に帰ってから、「日本人じゃないんだ!とか中国人なんだ!とか言うのはやめなさい。差別されたと思われちゃうかもしれないよ」と言われたことがありました。

私はただ、日本語上手!とか、外国に嫁ぐなんてすごい!と言うプラスの気持ちで反応しただけだったのに、母にそんな風に言われてすごく驚きました。

そして私はその時、中国人が差別されがち(25年ほど前)な存在なんだということを肌で感じてしまい、そのことに憤慨しました。母に差別を植え付けられたように感じたのです。差別してるつもりなんて全くなかったのに、「差別されがちな存在」をインプットされてしまったのです。

歴史や道徳などでも差別について学ぶ機会があるわけですが、この経験以来、「差別心のない純粋な子供に、差別の存在を教え続ける限り、差別は消えない。差別を教えることが、差別を生むのでは?」と思っていました。

この疑問はずっと残っていて、自分が親になってからは特に、子供になにを、どのように教えるべきなのだろう、子供に差別を教えるべきなのだろうか?と思っていました。

差別は心の在り方の問題ではない

そんなつもりで手に取ったわけではないある本に、その答えがありました。
本は、「麹町中学校の型破り校長 非常識な教え」と言う本です。

差別をしないことは、知識や疑問の問題。
差別は心の在り方の問題ではない。

と言うものです。

この文章を読んだ時、目の前がパッ!と明るくなったように感じたほど、衝撃を受けました。長年、疑問が消えず、考え続けていたことの答えを得た思いでした。

差別については、差別心がなければいい、と言うことではないんですね。
長い歴史の中で、ある言葉や振る舞いに差別されたと傷つく人がいる、そう言う知識を身につけて、そう言う言動をしない技能を身につけることが、社会人としてのあるべき姿なのです。
した側に、差別的な意図がなければ許されると言う話ではないわけです。

された側に、差別的な受け止め方がなければいいと言うことでもないでしょう。

例えば目を細めるジェスチャーがアジア人を侮蔑する振る舞いとしてよく話題になりますが、私はアジア人ですが目が小さいことにコンプレックスを持ったことはないので、大して気にならないけど?と思ってました。これも長年、腑に落ちなかったのです。気にならない人もいるのに、何でもかんでも差別っていうのはどうなのかなぁと。もし私に対してそういうジェスチャーをする人がいた時、私はどうすべきなのだろう?と思っていました。

でも、これもスッキリしました。
自分がその振る舞いで傷つかないからその振る舞いは問題ない、と言うことではないんですよね。
それを侮蔑的な意味合いで行う人は多いのでしょうし、やはりそれで侮蔑されたと感じる人も多いわけで、自分が平気でも、「それは差別的な行為だからやめるべきだ」と私はちゃんと拒絶の意を示すべき。

子供たちに教えてあげよう

それが差別的な行為と知らなかったから、差別する心はなかったから、と言う理由で許容されることではない。
歴史的な背景の中で差別だと見なされるようになった振る舞いを知ること、そしてその振る舞いをしない人になること、社会で生きていく上で、これが大事なんですね。

差別を知ることは、マナーやルールと同じ、人を不快にしないためのTipsとして知っておくべきこと。

当時の自分に教えてあげたいけれど、それはできない。
でも、我が子たちには、教えてあげたいと思います。





いいなと思ったら応援しよう!