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この夏はルックバックでルク泣き!

“感動すること”が好きだ。

漫画を読むとか、アニメを観るとか、それ自体に快感を覚えることはなく、むしろ鑑賞という行為自体は酷く億劫で、感動が担保されているなら、その報酬のためならと仕方なく鑑賞をしている。

様々な作品を自分の感情の材料として消費していることに一抹の罪悪感を抱きながらも、どこまで行っても自分にとって鑑賞は手段でしかなく、感動すること自体をゴールに据えて、億劫な気持ちで鑑賞を始める。

感動そのもの自体に価値を見出してしまうと、次に何が起こるかというと、感動の相対化をし始める。
同じ作品を鑑賞をした友人知人や、インターネットの感想文などから推察される個々人の感動の大きさを自分のそれと比較して、共感や批判を繰り返す。

魂が震えた作品が誰かに褒められていたら嬉しいし、貶されていたら悲しい。
逆もまた然りで、クソだと思った作品がクソだと言われていたら口角が上がるし、褒められていたらこいつは何もわかっていないと嫌悪する。

“作品で感動した自分”を内面化することによって、同調や共感などから自己を肯定している。価値観の正しさを補強している。

ただ、自分より感動した人が周りにいて欲しくない。
自分がその作品で最も感動した人間でありたい。
それは鑑賞自体に価値を見出しているのではなく、感動そのものに価値を感じているからである。

更に言えば、感動するという行為が恒常的であればあるほど、感動が大きければ大きいほど、自分に対する肯定感も増す。
価値を感じていることに価値があるという二重構造になっている。

人より感動したいし、人より感動する自分でありたい。
しかし、その願望が本来価値を感じていたはずの純粋な感動をどんどんと遠ざけていることも理解している。

感動するために感動したい。しかしその煩悩がある時点で感動出来ない。
鑑賞すればするほどこのスパイラルから抜け出せなくなり、薬物中毒者のように束の間の快楽を追い求めコンテンツを食い荒らす。
生きるために感動するのか、感動するために生きているのかわからない。という呪縛からずっと逃れられないでいる。

しかし、感動は永遠である。

俺がどんなに煩悩を抱えて作品を消費しようと、素晴らしい作品との出会いはふいに訪れる。
その瞬間俺は思考の澱から解放され、焦がれて止まない感動を得ることが出来る。そこには自意識も劣等感も罪悪感もなく、純粋な感動のみが自己を埋め尽くす。
作品と自己が溶け合い、境界が曖昧になり、肩が少しだけ軽くなる。

本当はそこに言語なんて必要ないのだけど、生きててよかったな、と思う。

今日映画版ルックバックを観た。
心の底から生きててよかったなと思った。

感想が何一ついらない映画だ。観たらわかる。


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