腹部コミュニケーション

1秒間に10センチずつ歩く世界。「世界」はいつから境界となったのか。鏡を通さずとも、誰かの承認を得ずとも、確かにそこにある私自体。生きたい、やってみたいという衝動。そうであることすべてが世界そのものだったところにカメラを回し始めた途端、「私」は世界内の存在となる。一人での演奏とパブリックで聞かせる演奏。重力とリズム、音楽そのものであるダンス。鏡に映る私。他の人と「平等に」鏡に映らされる私。見られる私。無限に深く広い問いへの出発点である。もうほとんどの成人はこんなことの関係を気にかけてはいないだろうが、私にはとても重要で、気がかりで仕方がないからこうしてここにとどまり続けている。実験室に、経験は反証に先立つ。つまり最も素材から出発する方法の一つである。私たちの目は見るほうの地平に並ぶことも、見られるほうの地平に並ぶこともない。「そうであること」を支えているのは「そうである」と確認する何者かを何者足らしめている何かである。

紙面人の吐息の足跡は、現人の無意識のパターンの軌跡である。足跡をその通りになぞることは、遠回りだ。現人は分析を経ない素材そのものである。観念があらゆる立体的つながりのパターンをもって展開される、つまり平面的時間性を逸脱するようなとき、例えば詩や一部の数学的思考において我々は言葉が現人のものであったことに気づく。意味は後から付け加えられるものだ。意味のある世界に閉じこもることは平面的時間に永遠に閉じ込められてらせんを忘れることだ。「私」の後ろ半分は近代の産物である「時空」からはみ出ているからゆっくり歩けばいつでも出られる。事実の面の後ろ側から始めれば、いつでも名前のない素材の全てから始められる。どれだけ速く面のすべてを張り合わせても、それが素材よりもずっと膨大な何かに見えたとしても、素材そのものにはかなわない。

鳥の会話に入っていくには、「空気を読む」ことが一番いいと感じた。チンチラとの会話では「弱みを見せること」だ。これはどちらも腹部を無防備にさらけ出すことだ。皆さんも試してほしい。名前や紙面で腹部を防護せずに、そのままでつながる方法を試してみて。

これをしなければどれだけ音程や鳴き方をまねても入っていけない。私は人同士の会話では知的興奮が勝ってしまって空気をぶっ壊していてもほとんど罪悪感のない(相手が相手なら違和感が気になることはあるけれど、どうしたらいいか分からない)やつだけど、動物や赤ちゃんとの会話、音楽のセッションなら人一倍空気が読める。腹部から会話に入っていくということだ。リズムや音の高低の素材は腹部の伸縮で、これは「そのような気がすること、思い込み」と「そうであること」を完全に切り離して考えることに慣れてしまった結果である。「感じ方は人それぞれ」確かにそうだが、重力と身体の付き合いは周期性があって扉も無数にあるから開かれたり、閉じたり
なにか苦しい、精神と身体のずれに違和感を感じるとならばそれは重力との付き合い方、つまり感じ方そのものがより背後のものに対して「間違っている」のかもしれない。これは紙面人的な言い方で、「一様な正しい感じ方がある!!」と主張しているのではなくて「あなたがあなたにおいて、私が私において、間違っている」という、紙面人的には「トートロジカル」な話である。


私のみが超越者であるかのような言い方をしているように、世界を俯瞰して上からものを言っているように感じる人もいるかもしれないがそうではない。素材のトートロジーにずれが始まって境界としての世界が始まる前の、つまり平面時間と推論が始まる以前の話である。だから誰でもそこに立つことはできるし、重要なのは肯定し、分析したり名前を付けたりしないことだ。印象と音程、リズムの関係性口と腹を別にして、腹を閉じたままでは絶対に聞き入れてくれない。私はこのような試みの最中で「どっかであったような気がする!」と数人の通り人に言われたことがあるが。紙面人にとっての影としての時間は現代物理学をはじめとして多くの場で直線性や平面性を逸脱したものとして現れるけども、現人の時間とはこのようなものなのかもしれない。私たちはいつも、影を見ている。


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