偽りのない言葉。
皆様には、昔は友達だった奴という存在はいるだろうか。4月は、奇しくも卒業と入学シーズンである。桜が散るとともに別れるという経験はなんともセンチメンタルである。
青春映画や恋愛映画のクライマックスシーンなんかは、桜吹雪の舞う中で別れていく二人を演出することもある。そしてまた、その未来に光を感じさせるものになっている。
現実でも、SNSのタイムラインに時々流れてくるキラキラとした若者たちの卒業報告の写真は、桜をバックにしたものは少なくないし、芸能人の卒業報告とくれば、母校の前か、桜の前かといった具合になっているように感じる。
しかし、残念ながらというべきか、桜が舞う中での別れという経験を探した場合、自分に関しては、小学校の卒業のタイミングが最初にして唯一の経験ということになる。そのときは風が吹いて桜が舞っているのを見て、ただなんとなく綺麗だなという感想だったような気がして、それで感動して泣くなんてことはなかった。
なぜ急にこんな思い出に浸ることになったかと問われれば、森山直太朗さんの「さくら(独唱)」を聞いたからである。なんとなく卒業シーズンの曲だなとか、やたら多い、「さくら」というタイトルの曲の中で真っ先に浮かぶ曲だなとかいうぼんやりしたイメージと、サビのさくら、さくらと繰り返される部分の印象が強かったのだが、改めて聞いてみるとどこか切ないようで悲しさを孕んだ曲だというように感じた。
歌詞全体を見ると、友人との別れと再開を祈るような曲である。そしてやってきた突然の別れを桜が舞い落ちる様子に喩えているということができる。自分は言葉の専門家でもなんでもないので、そのような方面の考察ができるわけでもないが、自分に一番響いたのは結局のところ、次の歌詞である。
今なら言えるだろうか 偽りのない言葉
輝ける君の未来を願う 本当の言葉
この歌詞を聞いて思い出されるのは、小学校の頃の友達である。自分は中学受験をし、中高一貫校に進むことになり、当時はLINEなんてものはなく、携帯電話を持っている友達も限られていたので、小学校の友達とは卒業式にあったのが最後である。というわけで、卒業式で話した会話が、彼ら・彼女らとの最後の言葉ということになる。彼らに対して、正しい言葉をかけられたのかという面では、後悔がないわけでもないのだが、ともかく、この歌詞を見て思うのは、「最後だからこそ」という意識についてである。
先の歌詞は、別れが迫った今だからこそ、心からの言葉を送れるだろうというように解釈できる。それが、ある意味、それまで逃げてきたことに対するツケが回ってきたという見方もできれば、それまではどこかライバル視していた友人に素直な言葉を送れるラストチャンスだとも見ることができる。どちらにせよ、同じ環境にいなくなるという事実が揺り動かす感情であることは間違いないといえるだろう。
自分は、友達をライバルとして見ないタイプ、正確に言えば、友達をライバルとして見ないことで自己防衛の姿勢をとるタイプであるので、このような感情を完璧に理解することができない。少ない人数しか達成できないことや、好きな人どうこうという話題に関しては、友達に譲ってきたし、彼らが苦手とすることを手助けしてあげられればというように立ち回ってきたので、自分は常に友達たちの未来を願う言葉はかけられていたのだと思いたい。
そんな自分にとって、「刹那に散りゆく」桜のような別れの場面でも何気ない応援の言葉を掛け合って別れてきたように思う。そのことについて後悔があるわけではないが、今改めてそのことについて考えると、別の言葉をかければよかったという思いに駆られなくもない。
「君には勝てないや、すごいよ。でも俺も負けないから。」
「最後くらいは」友達をライバルとして見た正直な感想を述べても良かったのかななんて。
もうきっと会うことのない友よ。またあの場所で会おう。