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否定されて気付くこと

昨夜、大学時代の友人たちと久しぶりに会話した。

5人前後で、LINEで、おのおのきっと自分たちのことをしながら、ながら通話だ。ただ、そうやって自分が話すわけでもなく友達の声を聞くだけでなんだか懐かしく、学生時代に戻ったような感覚にる。

戻りたいという気持ちには変わりはないのだが。


会話の中で、否が応でもお互いの近況報告をすることになる。

就職してはじめは、自分がやめたいとか転職を考えている、職場の環境があーだこーだ言うのが恥ずかしく、友達と話すことも敬遠していたような気がする。

しかし、仕事への慣れと自分の中で次の目標が定まりつつある今では、あの期間も意味のあるいい経験だったと思える、というかそう思って実績にするぐらいのプラス思考をできるようになった。

友達にも冗談めかして話すことが出来、正直にその時思っていた気持ちや考え方を伝えることができた。


その中で、その僕の一部歪んでしまっていた考え方やモノの見方を、「否定」してくれるのが本当にありがたいのだ。

この9ヶ月、同期もいなく気軽に話すような間柄な同僚はいなかったため(もちろん自分にも非はあるのだろうが)、自分一人で、本や動画に教えを請い、自分なりの考え方を構築していった。
たまには、友達や親に相談したこともあったが、やはり、ある程度積み重なりつつある価値観を全否定してくれる友達の存在はかなり大きい。

「老害化しているぞ」

昨夜イチ響いたフレーズだ。

自分は考えすぎる(とはいっても行動派だとは思っている)傾向があり、背教育のこのとについて今のままで良いのか、これが間違っているなど少し左よりの考え方になっていたのかもしれない。

「言っていることはよく分かるが、全員が全員できるわけではない。それが社会、現実じゃないか」

ほんとにそのとおりだと思う。
すこし、ドリーマーになりすぎていたのかもしれない。

確かに、現実を直視すれば彼の言うことは正しいし、それでもなお「こうあるべき」といった考え方にこだわりすぎるのは価値観の押し付けじゃないか。

価値観を許容し、吸収し、新しい行動をする。
押し付けなんてもってのほか。

自分の指針をぶらすようなことをしていたのかもしれない。

他人を肯定し受け入れるのは素敵だし、実際そうすべきだと思う。

ただ、否定されることはある意味で全肯定の呪縛から開放されるきっかけになる。自己肯定しつつ、自己否定し常に明後日の方向に舵を切っていないか自問自答、行動しなければならない。

否定してくれてありがとう。


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