正しさが厄介
今まで他人と喧嘩や揉めたこと、自分が当事者でなくても第三者として立ち合ったことで気づいたのが、この「正しさが厄介」だ。
自分は正しいと思うからこそ相手に伝えているのに相手が受け入れてくれない、この構造が多かったように思う。
ここで厄介なのが
①自分では「正しい」とすら認識していないくらい常識レベルの当たり前だと思っていること
②相手も同じ思いであること
③自分の「正しさ」と相手の「正しさ」が折り合えないこと
④自分も相手もそれぞれが「自分以外の誰かのため」に主張してる場合が多いこと
こんなところだと思う。
私が遭遇してきたケースを振り返ってみてのことですが。
「これはあくまで私個人の意見なんだけど・・・」が前提ならば違う考え方を拒絶することはしないのだと思う。
でも「これは一般常識だから・・・」が前提にあるから、相手とかみ合わなかったときに相手が「正しくない」になってしまうのだ。
そして「正しくない」のだから改めてもらわなくては!!気づかせなくては!!となってしまうのだと思う。
例えば大げさではあるけれど、「外で働いてお金を稼ぐのが愛」と思っている人と「毎晩一緒に食卓を囲むことが愛」や「病気の時は付き添っているのが愛」と思っている人同士が家族だった場合。
こんな極端なことはなくても近しい関係であればあるほど、こうした違いが積み重なってしまうから喧嘩したり揉めたりするのだと思う。
きっとだから喧嘩したり揉めたりすることが、違いに気づくための一歩になっているのだと思う。
きっと自分も相手も持っている考え方そのものは直さなくていいのだと思う。
きっと相手は自分と違う「正しさ」を持っていて、それを大切にしていると思うだけでいいのだと思う。
ただ・・・・・私のこの考え方もやはり私だけの正しさから生まれているものだから、むやみに主張したりましてや強制もできないのですが。
私のこの考え方が原因で起こった喧嘩もあるのだし(笑)