理想の自分ってどこにいるの?

「もし神様(みたいな存在)が理想のあなたに変えてあげると言われたら何をお願いするか?遠慮しなくていい、1個でなくても好きなだけ、どんなに今とかけ離れていてもいい」

こんな仮定をして理想の自分を描こうとしたとき、私は案外出てこないことに驚きました。

普段「〇〇だったらいいのになぁ」とか、「私は〇〇じゃないから無理だわ」と並べ立てているのに、いざ叶うとなったらこれらのだったらいいのになぁは本心からの願いではないことに気づきます。

例えば、昔から変わらず絶えず思っている「可愛かったらいいのになぁ」も具体的に願うとなると案外ぼんやりしているものです。

すごく憧れの人がいてその人みたいになりたいと思っている人は迷うことがないのかもしれませんが、私はそこまでの理想の人はいないので「誰かと容姿を交換することに魅力がなかった」のです。

かといって、自分のまま可愛くも無理だろうし・・・。

と考えていて気付くことは私が欲しかったのは「可愛いことで得られるいい気分」だったのかもということです。

もっと具体的にすると他人に優しくされるとか服が似合うとか・・・。

ここまで具体的にしてみると案外今でも自分で叶えられそうになってきました。

優しくされたかったら自分から優しくしてみたらいいかもしれないし、似合う服は探せば一つや二つありそうですし。

「お金が欲しい」も無理そうに見えて案外こうやって掘っていくと叶うレベルに行き着くものです。

お金を何に使うの?何でほしいの?と考えた時に「好きなモノを買いたい」と「安心が欲しい」が出てきました。

好きなモノって?安心って?とさらに掘り進めていくと・・・欲しいものは旅行に行ったりの経験かなぁ、でもそんなにしょっちゅう行きたいわけでもないか・・・安心って将来の健康的な生活かな、でも保険に入ってるしお金がなくても健康には気をつけられるよなぁ・・・とだんだん目的がお金そのものじゃなかったような気になってきました。


たぶん私がやっていることは半分遊び、誤魔化しみたいなところがあるとは思います。

でも日常で思う「〇〇だったらいいのになぁ」は案外目に入ってきた羨ましい他人の姿に心を奪われているだけだったり、今を丁寧に生きてないだけだったのかも。

そして本当の理想の姿って自分で丁寧に心を掘り下げていくと叶うものもまだまだいっぱいあると気づいたし、これからも心が騒めくときに思い出したいのです。

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