御礼とご報告:カスタムジャパンは20期目を迎え、創業19年目となりました。
拝啓 盛夏の候、皆さまにおかれましてはますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
いつもカスタムジャパンをご愛顧いただき、誠にありがとうございます。
多くのお客様、お取引先様、従業員や関係者の皆さまのおかげで、カスタムジャパンはすでに第20期を迎え、2024年8月9日に創業19年目を迎えることができます。これまでのご支援、ご愛顧に心より感謝申し上げます。
本年は第20期目の会計年度に突入し、新たな挑戦と成長を続けております。この節目に際し、創業当時の思い出を振り返りながら、皆さまと共にこれからの「ノル人をツクる」未来を描いていきたいと思います。
創業の背景
カスタムジャパンの創業は2005年ですが、その誕生の背景には私の家業である「鶴橋部品(現:日本モーターパーツ)」という会社があります。鶴橋部品は、私たちの原点であり、カスタムジャパンの基礎を築いた大切な存在です。
創業期の写真紹介
今回、創業期の写真を創業メンバーから頂いたので、いくつかご紹介いたします。これらの写真は、カスタムジャパンの初期の頃の姿を記録した貴重なものであり、私たちの歩んできた道のりを物語っています。
2005年:家業の鶴橋部品とカスタムジャパン創業の頃。
鶴橋駅から徒歩数分の千日前通り沿いに私の家業である地域部品商の鶴橋部品がございました。
そこ頃、部品をネットで仕入することはほとんどなく、ヤフクオで部品が流通している程度の状況でした。
また、部品の注文を注文するお客様も多種多様で価格も不透明な部分が残る業界の慣習のようなものが残っておりました。
そのような中、流通構造の複雑さに加え、部品の検索性の複雑さと仕入の利便性を高め、透明性のある価格で部品を流通する必要あると感じカスタムジャパンを創業しました。
当時のコンセプトは「バイクパーツの流通をカスタムする会社。」でした。
当時のコンセプトは「バイクパーツの流通をカスタムする会社」でした。
現在も千日前通りに建物は残っていますが、現在はテントの一部が残っている程度です。
2006年:B2B通販事業の本格稼働開始
修理に必要な国内メーカーの取扱いの取扱いを増やすとともに、コストパフォーマンスの高い海外ブランドや自社ブランドの商品開発を積極的に採用しました。
時代のトレンドとして、完成車メーカーが海外拠点が強化されるにしたがい、パーツサプライヤー、工場が台湾や中国、東南アジアへと急速に拡大していきました。
商品開発チームが積極的に海外サプライヤーを開拓し、現在では数百社の取引ネットワークを形成しながら、お客様に喜んでいただける商品の開拓、開発を推進しております。
商品開発:バイクパーツの流通をカスタムする会社として、スクーターのカスタムパーツから事業スタートしました。
人口2000万人に対し、二輪保有台数が1000万台というバイク大国の台湾での商品開発を強化しました。
世の中のトレンドとして、原付二種が増加していく過程にあった時期で、様々なスクーターパーツの開発を行いました。
お客様:当時、たくさんお買い上げいただいた南海部品横浜店さん
現KN企画のたかちゃんが勤務されていたスクーターカスタムのお店です。おそらく、日本で一番スクーターカスタムパーツを販売していたリアル店舗だったと思います。
訪問研究:サプライヤーへの訪問と商品開発研究
NCY陳さんのインタビュー記事が残ってました。
↓ ご覧ください。
記事から商品へはリンク切れのページですが、、、。
2007年:創業3年目に4階建てのスーパー跡地に移転
創業3年目の2007年に、倉庫の場所は細かく5か所に分かれて混乱状態となったので、4階建ての一棟ビルに移転しました。たまたま、居抜く物件だったために商品棚も残っており、マテハン投資はほぼなし。しかも、賃料は坪2000円台前半の格安だった記憶です。
現在は鶴橋市場で業務用海鮮卸のオノウエさんの店舗になっています。
2008年:創業4年目に東大阪に移転
2007年に一棟ビルに移転したのですが、4階建てビルは階段移動とエレベータ―移動で物流効率が非常に悪く大変でした。このタイミングで東大阪の倉庫にご縁があり、引越して1年後に再度すぐ引越となりました。
本社も倉庫もすべて移転ということで現場はかなり混乱しましたが、みんなの頑張りでなんとか移転を終えました。
このタイミングでカスタムジャパンと本社事務所統合、鶴橋部品は社名変更し日本モーターパーツへと変わりました。
東京モーターサイクルショー:初出展と用品店への流通
第35回東京モーターサイクルショーに初出展しました。初めてのモーターサイクルショーということで、右も左もわからない状態でしたが、初めてのB2C展示会で商品をお客様にご覧いただく機会で今でも鮮明に覚えています。
印象的な出来事は、デイトナ創業者のヘンリー阿部さんがブースにいらっしゃり私たちの商品をじっと見つめて吟味されていました。
予算が限られていたので、目立つために着ぐるみを当時の社員にダンスをして低予算でいかに目立たせるかというパープルカウ戦略で集客した記憶がございます。
創業からの歩みと感謝の気持ち
創業の頃の写真を見返すと、私たちの原点とそれを支えてくださった多くの方々への感謝の気持ちがあふれます。カスタムジャパンはこれからも初心を忘れずに、お客様に喜んでいただける会社になるために努力を続けてまいります。
さらに、家業の日本モーターパーツの歴史はまもなく70年になります。
30年後、私が生きているかどうかは分かりませんが、家業を100年企業として、永続的な発展ができる組織として存在し続けることを目指します。
皆さまのご支援とご協力があってこそ、家業の日本モーターパーツはもちろん、今のカスタムジャパンが存在できます。
これからも皆様と共に成長し、素晴らしい未来を築いていきましょう。どうぞよろしくお願いいたします。
最後に、これまで支えてくださった全ての方々に心より感謝申し上げます。
「ノル人をツクる」
Ride together and move forward
カスタムジャパン
村井基輝(むらいもとき)
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●自転車屋さんからスタートした家業
自転車屋「丸竹自転車店」
幼少期の鶴橋部品二代目村井達司氏と母、金子。村井達司氏の父、吉夫が戦後、大阪市鶴橋で始めた町の自転車屋「丸竹自転車店」の前で撮影。その後、バイク部品卸販売業として法人化したのが、鶴橋部品となりました