ひとつしか持っていないもの
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2019.2.19.23:43
アウトプットしていた言葉たちを読み返していたら、それはそれは鮮明で懐かしく(美化されてるからだろうけど)いとおしい気持ちになった。
思い出というのは、こうして取り出してあたためるためだけに存在していてほしい。だから悪い思い出は、できたら頭からも心からもデリートできればいいのだけれど、なかなかそうはうまくいかないもので。
一度失った自信を取り戻すのは簡単ではないし、「それ以前のわたし」に戻れることはもうないわけで。
「何も知らなかったわたし」にはもう戻れなくて、傷だらけの自分と生きていくしかないんだな、と、日々どんよりとしてしまう。
自信がないのはしんどいので、いい加減本気で痩せなくちゃと思いながら、さっき雪見だいふくを食べたわたしの罪は、重い。
*
わたしが大人になるすぎるほど大人になって、まぁ、いろいろあって今があって、それでもまだ分からないことだらけなのだけれど、ひとつだけ自分の中で「これは真理だな」と思っていることがある。また、大げさな書き方だけれど、真理、だなんて。
それは「初体験はしあわせな思い出であるべき」ということである。
なぜ、それを真理だなんて思っているのかというと、わたしの初体験はおよそしあわせとは遠ざかったところにあり、それは果てしない後悔の元にあるからだ。今更だけど。
当たり前のことを書いてみる。
「誰でも処女はひとつしか持っていない」
ということだ。処女って、そんな言葉、もう使わないのかもしれないけれど、誰でも初めてのセックスは一度しかないのだ。
わたしももっともっとコドモの頃は、自分にもいつか訪れる初めてのセックスの場面は、もっとロマンチックなものだと信じていた。
せめて。
相手から望まれて、自分も望んでいて、段階を踏んで、用意周到すぎるほど時間をかけて、なんならちょっと良いホテルで、記念日や誕生日やクリスマスなんかに、行われるものだと思っていた。
なんなら、初めてのキスだって、そういうものだと思っていた。
だけど、残念ながら、わたしの人生にはそういうしあわせな展開は訪れることはなく、流れ作業のように終わっていった。
「あぁ、こんなもんか」「痛いって聞いてたけど、本当に痛いな」「血が出るっていうのは全員ではなかったのか」
冷静に天井を見ながらそう思ったとき、わたしの中では何かが弾けてしまったような気がする。
わたしは「処女」を失ったあとも、誰かと「その人とのはじめて」を迎えるときは、いつも気を使っていた。
いつもいつもいつも、相手に嫌な思いをさせないように手配していた気がする。時々どうしてもうまくできなくて、八つ当たりしてしまう相手もいたけれど(ごめんなさい、ほんとに)。
でも、本当に「処女はひとつしか持っていない」のだ。
だから、大切にしろとは言わないけれど、その在り方で、今後の自分の恋愛観とかが大きく左右されるということを、女の子たちにはお知らせしたい。
って、どの立場からだよって話なんだけど。
わたしは、思春期に性的に嫌な思いをしたことがあり、その経験から、どうしても嫌悪感や、自分に対して自信を失っていた部分がある。
だから、こんな汚いわたしでも「ほしい」と思ってもらえるのなら「どうぞ」と思ってしまっていた。
こんなわたしから、ほしいものがもしあるのであれば、どうぞ。
そうやって生きてきた。
でもだからこそ、思う。
「誰でも処女はひとつしか持っていない」
女の子はきっと、大切にされた初体験の思い出があると、それからもしあわせになれる確率が高い気がする。
もうわたしが今からどんなに足掻いても、手に入れられない類のもの。
まぁ、もう済んでしまったことは仕方がないから、これから先なるべく自信を持てるように、頑張っていきたいな、とは思う。
だから、雪見だいふくを食べている場合ではないのだ。
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