母の死 98歳
目次
1)98歳の母の死
2)お葬式とそのあとの会食
3)母の思い出
4)妹との確執
4)FBでのフィードバック
5)死という概念についての考え方、受け止め方
6)私は死に対する準備をしているのか
1)98歳の母の死
母が17日の昼に亡くなりました。知らせを受けて駆け付けたときにはもう亡くなっていました。
穏やかな顔で眠っているようでした。
触ってもまだ温かみがありました。
いったんうちに戻って必要なものを取りに行くという妹に代わって、少しの間母と二人で時間を過ごしました。
「お母さん、ありがとう」と言うと、涙が出てきました。
何も反応がないお母さん。
そのうちに看護婦さんが体をきれいにしてくれて、髪を洗ってくれました。
妹が母に着せるものを持って帰ってきて、一緒に着替えさせました。
刺しゅうの入った白いブラウスと茶色のパンツです。
そして母にお化粧をしました。ファンデーションを塗ると顔色が一定になりいい感じです。98歳なのにそもそもあまりしわとかがなかったのです。
お化粧が終わるときれいになりました。
痛々しいほど痩せていたけど、ブラウスも素敵です。
それから実家に行って葬儀と焼却の打ち合わせをしました。といっても喪主は妹なので、私は聞いているだけ。朝から何も食べてないという妹に夕食を作っていました。
2)母の思い出
6年前に母が脳梗塞で倒れてから、ずっと妹が介護をしてきました。並大抵のことではなかったと思います。プロの看護師である妹に比べて私は何もできず、かつ自分の生活を立てるために仕事に忙しく、母に会いに行くのが精いっぱいでした。
骨粗しょう症のために全身の骨を骨折し、(大腿骨、背骨、左腕、などなど)肺がんもあって、寝たきりで寝返りを自分ですることもままならなかったのですが、母は最期まで穏やかでした。
ホスピスの看護師さんに、「母はどんな患者だったのですか?」と聞くと、
「かわいい方でした。」と言われました。「すごくかわいいおばあちゃんで食事介助をするのが楽しみでした」
妹に言わせると「ホスピスのアイドル」だったそうです。
告別式の当日、病院から運ばれてきた母は手に小さな野草の花束を握っていました。病院の看護師さんが作ってくださったそうです。
見舞いに行くたびに「お母さん、元恵ですよ。今日は具合はどう?」と聞くと、「まあまあ」と言っていた母。
最後のほうはあんまり意思疎通ができなくなって、悲しかったのですが、
覚えているのは、6年前、脳梗塞の発作の後、その時の悩みを打ち明けて、今まで一生懸命頑張ってきたのに、全部無駄だったような気がすると泣いたのでした。その時母は、「人生に無駄なことなんてない。きっとそれが役に立つときがくる。」と励ましてくれました。私はこんな年になっても母親に慰めてもらうなんて情けない自分だなと思ったのですが、その時もう90を過ぎていた母がそういう励ましをしてくれたということはすごいことだと思います。
母の作ってくれたお弁当が好きでした。色彩感覚があったので、いつもカラフルなお弁当で友達にうらやましがられました。特におにぎりと卵焼きが上手でした。私はいまだにあの頃の母のようにおにぎりが作れません。
母はとても穏やかで素直な人で、だから98歳まで生きられたのだと思います。素直 これが一番ぴったりだと思います。私は若いころはさんざんわがままを言って母を困らせました。これは妹も同じです。
妹が母を自宅に引き取り、自宅介護を始めてからもいろいろありました。
介護施設に入所したり、緊急入院したり、少し落ち着いてからは車いすになってからは妹が母を温泉や山に連れていきました。(私は一度も誘われませんでした。)
4)妹との確執
最初は良かったのですが、このころから私は母になかなか会えなくなりました。コロナが始まり、病院に入院中の母にはガラス越しでしか会えず、自宅介護のときも、妹から「コロナが怖いので、来ないでください」と言われ、
コロナが落ち着いてからも、3か月以上も連絡が取れないこともありました。
以前は実家に行ってお母のためにご飯を作ったりしていたのに、途中から、一切の手伝いを拒否されました。皿洗いでさえダメだというのです。
お母さんの介護で疲れている、くたくただと言うのに、皿洗いさえさせてもらえない。「あんたが洗うと食器がまだ汚れていて、私がもう一度洗いなおさなければならないんだよ!」と怒鳴られました。
妹に何か言うと、100倍になって帰ってくるので、最近は何も言わないようにしています。母の介護が始まってからは特に、母を独り占めしたかったようです。事前に妹にお伺いを立てて、許可をもらわないと会いに行くこともままなりませんでした。
こちらは介護をお願いしている立場で、かつお金もない弱い立場なので、何も言えません。でも3か月連絡が取れなかったときは、本当に心配しました。
警察に問い合わせようとさえ思いました。電話にもメールにも返答がないのです。結局、その直前にした会話で、私に対して怒っていて報復のつもりだったようです。こういうのって、本当に傷つきます。
お葬式の後、親戚で会食がありました。 6人くらいの少人数です。
美味しい和食のコースをいただき、11年ぶりに会う親戚と語らいました。
私は楽しかったのですが、終わって車の中で妹と二人きりになったとき、妹が「忘れちゃうといけないから言っとくけど、今日はお母さんを偲ぶ日なのよ。あんたは自分のことばかりしゃべりすぎ。」と非難されました。私が反論しようとすると「今疲れているから話すと事故を起こすかもしれない。話しかけないで」と言われ、何も言えませんでした。
楽しかった気分がぺしゃんこになりました。妹はこうやっていつも私を非難するのです。凄くストレスがたまります。
4)FBでの誹謗中傷
さらにショックだったのは。フェイスブックで、告別式の写真を投稿したことに対して非難されたことです。葬儀屋さんがとても綺麗に花を飾ってくれて、母がとても平和な顔であったので、フェイスブックにアップしたのです。
どうもそれはあまりあることではなかったらしく、あるフェイスブックフレンドの方が、あるグループで、「非常識だ。見たくないものを見せられた。こんなことをするなんて信じられない。」と投稿。そしてとてもたくさんの方がそれに同調。私は何も考えてなかったので、びっくりしてなおかつ傷つきました。ただ、写真を永遠に残しておきたかったのです。
不愉快に思われた方もいたかと思います。申し訳ございません。
「ペットの死体の写真さえ見たくないのに」とそこでは言われていました。
きっと私の考え方、感じ方が一般の人とは違うのでしょう。
私は本当に何も考えずに投稿しただけなのですが、結構傷つきました。
前日に妹から会食のときの態度を非難されたばかりだったので余計につらかったです。同時にそのFBフレンドの方が「さすがに本人には言えないのでここに投稿した」と言ったのが腹が立ちました。こういう日本人的な陰湿な態度が大嫌いなのです。
なにもグループの中でさらし者にしなくても個人的にメッセージを送ってくれればよかったのにと思いました。後ろでいろいろ言われるのは本当に嫌です。私にも至らぬところはあったと思いますが、こうやってよってたかって誹謗中傷するのがいいとは思えません。
5)死という概念について
死という概念について国や民族、宗教によって見方が違います。
死とは恐ろしいもの、怖いもの、という概念がある人は多いのではないでしょうか?ある意味、タブーなのでしょうか?だから死体の写真をみて嫌な気持ちになるのでしょう。
私は3年半、フィンドホーンというスコットランドのスピリチュアルコミュニティに住んでいました。そこの創業者の1人、アイリーン・キャディさんは、自分が死んだときのための遺書を残していました。
彼女がなくなったとき、たまたま私は3か月プログラムに参加していてフィンドホーンにいました。
お葬式は親族だけで行い、コミュニティとしては偲ぶ会を行い、そこではアイリーンさんのことを隣の人とシェアして、それからみんなで歌を歌い、
最後にはみんなで一緒に踊り狂いました。
アイリーンさんが遺書で、「私が死んだときは悲しまないでください。創造主のもとに帰るのだから、祝ってください。」と言ったからです。
これは神を信じているかどうかにかかっているのでしょう。
どのような宗教であろうと、神を信じていれば、死とは神のもとに帰ることであり、喜ばしいことであるのです。母はそれを信じていたのでしょう。
告別式に来た親戚もほとんどがクリスチャンであったので、「やっとおばさんもおじさんに会えるんだね。13年もかかったから待ちくたびれてるかも。」と言っていました。
6)私は死に対する準備をしているのか?
そうはいっても私自身が死の準備をしているか?と聞かれると、そうだとは言えません。まだまだやることがあるのに、何もできてない気がします。
最近は持病のため、思うように動けず、このまま死んでいくのかと寂しい気持ちになったりします。
でもこの世で大したことはできなかったけど、 今までせいいっぱい生きてきたことだけは確かです。天国、もしくは地獄の入り口で。「せいいっぱい生きてきたか?と聞かれたら、ハイと答えられると思います。
でもまだまだやりたいことがあるので、最後に死ぬ瞬間まで努力を続けたいと思います。ご協力お願いいたします。