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Interview vol.18 WAKKUN(画家・イラストレーター・絵本作家)「僕らは存在するだけでいい」

第18回は現在BBプラザ美術館で、「開館15周年企画展 震災から30年 WAKKUNのもらった種とまいた種」を開催中の、神戸出身の画家・イラストレーター・絵本作家、WAKKUNさんです。
 


神戸・BBプラザ美術館で開催中の「開館15周年企画展 震災から30年 WAKKUNのもらった種とまいた種」 大学生以下は入場無料

■元町映画館と思い出の『ニュー・シネマ・パラダイス』


 林未来さん(元町映画館開業以来のスタッフ)が夙川界隈でnomadekinoという移動上映会をやっているころから、よく足を運んでいました。映画を好きな彼女が、縁あって新しくできる元町映画館のオープニングスタッフとして働くようになり、良かったなと思っています。自分の好きなことが仕事につながり、それを広げていくことによって自分も楽しめる。

 映画の思い出で言えば、三ノ宮の映画館で『ニュー・シネマ・パラダイス』を観たときのこと。ラストでキスのラッシュシーンが出てきて、それまで感動で涙ぐんでいたのに、一気に気持ちが動転して「わー!」と声が出そうになった。そのとき偶然、知り合いの女の子も最前列でボロボロに泣きながら鑑賞していて、「WAKKUN、映画すごかったね」とふたりで泣きました。最寄りの駅まで歩きながら、いろんな人に「すごかったで!」と言っていきましたよ。

■あいまいな感覚を大切に


もっとそこにいたいような、帰りたいような、どっちなんだろうというあいまいな感覚は大事だなと思うんです。僕らのころは、例えば算数は問題を解くため考えていく道筋がわかるから「考え方は合っているけれど、結論に至る最後が間違っている」という風に、答えが間違っていても、いくつか点数をつけてくれていた。でも今はマルかバツの二択が主流です。経過を割愛してダメなものはダメということでは人間の思考力は育たない。
 
今の人間は視覚と前頭葉だけを使っているけれど、僕たちは生き物です。嗅覚や触覚を使って再認識するわけです。ときどき若い人の前で話すことがあるのですが、僕がこの話をすると、ハッとした顔をしてくれることがありますよ。

■58歳で知った本当の「ネギ」の味


僕が58歳のとき、友達と約束をしていたので、出かける前に急いでそうめんを食べようと、そうめんを茹で、包丁が見当たらなかったのでネギをハサミで大振りにカットしたんです。いざ食べようとしたら歯と歯の間に縦にネギが挟まり、グッと噛むと、ぷわーんと香りと旨味が広がり、初めて「ネギって、こんなに美味しいんだ!」と思いました。
 
僕は何千回とネギを食べてきたけれど、今まで冷奴の上に乗せるなど、ネギをただの添え物として認識していたんです。でも、鼻からネギの風味が抜けていき、抜けたあとの残り香が感じられて「ネギって、こんなに奥深いのか」と思った。それまで、全然気づかなかったことでした。だから食べ物にしろ、何かを確認するときに五感を使うのは、本当に大事なんです。本当の意味でネギの旨味がわかり、「ネギさん、恐れ入りました」と心の中で頭を下げました。
 

展示会会場エントランスにはWAKKUNさんの心のこもったごあいさつ文が!

■絵や字に宿る「心の核」


大瀧詠一さんがナイアガラのアルバムを出して活動していたとき、芦屋によく来ていて、彼も映画好きだったので僕と話が合い、日活映画のことをああでもない、こうでもないと話したものでした。ある日、大瀧さんのプロデューサーに呼ばれて芦屋の店に行くと、女の子がひとりいた。彼女は僕にお茶を出してくれ、大瀧さんが少し遅れることを伝えただけでなく、「わたし、歌を作って歌ったりするんです」と、ギターを持って歌い始めました。「13歳のときから男から男へ、渡り歩いて。でもハニー、あなたに会うためにこの旅を続けたのよ」と。
 
あまりにすごかったので、いつ作ったのか聞いてみると、彼女がまだ15〜16歳のころに作った曲だった。彼女はその後ニューヨークに渡り、現地で活動するようになったのですが、渡米前に手紙やハガキのやりとりをしていたんです。彼女は、はずむような気持ちのときは大きく跳ねたような感じ、逆に悲しいことがあったときは小さく沈んだような感じの字で書いており、それが本当の表現なのではないかと思った。当時の僕は楷書みたいにきれいに字を書いていたけれど、そんな自分の字が味気なく思えて嫌になってきた。そこから字を崩し始めました。その転換は、僕にとって大きかった。
 
それは絵にも言えることで、例えば子どもが「おばあちゃん、大好き!」など、核になるものを抱いて絵を描いていくでしょ。それはすごく大切なことで、心の核が絵に宿っているから、素晴らしいものができる。だから僕も素直に描いているんです。
 

子どものころを思い出す「秘密基地」 自由に中に入ることができる

■心を動かす


30代のころは、本当の僕というものがわかっていなかったし、何だろうと思っていました。僕は神戸生まれ育ちで、鳥取に田舎があり、夏休みになって田舎に帰ると、「かっちゃん、お帰り!」と近所の子が集まってくるので、神戸で一番流行っている遊びを教えてあげると、「神戸、すげえ!」と喜んでくれたんです。そこで僕は、遣唐使や遣隋使みたいな役割が自分に合っているのではないかと思った。また田舎で過ごしていると、この虫すごいとか、こんな花が咲いていると心が常に動くので、それを表現したいと思った。それが積み重なり、この企画展で見ていただいているような表現の世界を作っています。友人の友部正人さんや坂田明さんも、素直に心を動かして演奏しているし、その影響を受けあいながら創作することが、僕も楽しいです(企画展では要予約でお二人それぞれのsoloライブを開催予定)。
 

親友の画家、東野健一さんと過ごす時間から生まれた作品「舟出」

■ふたりの約束


僕は絵描きの東野健一さんと仲が良かったけれど、ずっと一緒にいるということは意識的にしなかった。彼はインド、僕は新潟や色んなところへ行ってもらってきた種を具現化して表現する役目があるんです。でも、東野さんとときどき会ってご飯を食べたり、お茶を飲んだりすることで、「これでええわ」と自分の足場がかたまる。東野さんが僕の作品展にきた時に「いつも会場におるの?」と聞かれ、会期中、会場でずっといることに「えー!」と驚かれたことは今でも覚えています。東京など離れた場所での展示は3日間ぐらいですが、それ以外はずっと在廊していますから、みなさんいろいろなお話を悩みも含めて僕にしてくださる。僕もいろいろ悩んできたし、「こういうことでええんや」と僕の経験をお伝えできればと思っているんです。
 

各種関連イベントを開催!(要予約)

■阪神・淡路大震災と元町商店街でホッとできるひととき作り


僕が44歳のとき阪神・淡路大震災が起き、家族で県立長田高校に避難しました。長田高校だけが震度7に耐えられる構造で、しかも自家発電設備があった。当時、どこも真っ暗だったし、長田が燃えている炎も見えているぐらい近かったことを覚えています。震災の翌日からビニールシートを配布したりと忙しかったけれど、あそこに避難できたのは大きかった。当時はお互いに情報を共有しながら、みんな頑張っていました。今の高速長田駅の上ぐらいにキリスト教系の団体が「スープを飲んでいってください」と炊き出しをしていて、もう少し進むと右翼団体がサンドイッチをふるまい、湊川に近いところでは山口組が食料を配っていて、みんな売名でもなんでもなく、宗教も何も関係ない。とりあえず生きていこうと声を掛け合っていた。それも僕にとって大きな経験でした。
 
当時、電車が動いていなかったので、みんなリュックを背負って元町通りを右往左往していたんです。そんな様子を見ていたからか、元町商店街でアンニュイという雑貨店を営んでいた髙濱浩子さんをはじめ、仲間たちが相談して、商店街で人がホッとできるような催しを考えました。それが、震災から約1ヶ月後の2月22日にジャズ喫茶の「木馬」「JAMJAM」「AZUMA」等、友人のマスターたちがコーヒーを淹れてくれ、深川和美さんが歌ったり、僕が絵を描くというゲリライベントです。僕の出番を前に元町のアトリエに紙を取りに帰ったとき、「プカプカ」という名曲を作った西岡恭蔵さんとフォーク歌手の加川良さんが関東から僕の様子を見にきてくれていたのです。「心配していたけど、元気そうやな」というものだから、「今からそこで描くねん!」と。彼らも歌に加わり、僕がライブペインティングをして、道ゆく人にはコーヒーを振舞いました。それから数年後、3人ぐらいの人から「涌嶋さん、震災のとき元町でコーヒーをいただき、絵を見ました」と声をかけてもらい、役に立ったんだなと思いました。30年後となる1月17日は、展覧会場でライブペインティングをやります。
 

半紙をつないだ長い長い芳名帳も作品として展示されている

■胸いっぱいになったライブペインティング


震災から30年、長いといえば長いし、短いといえば短いけれど、その後にいろいろなご縁があり、たくさんの人と一緒に創作活動ができているのはありがたいことです。
 
震災という大きい負の体験をした後、芦屋市立美術博物館で180人のお客さんの前で、10メートルの書を書いたことがありました。そのときお客さんに「上を向いて歩こう」をハミングで歌って応援してくださいと呼びかけたんです。すると何も考えずに紙に向かった僕に、ある言葉が降りてきました。あの震災で僕が死んでいたとして、自分の子どもがどういう状態だったら嬉しいかを想像してみると、長男が「おとうちゃんが死んだけど、僕らけっこう元気やで」と言う姿が浮かんだ。それが一番うれしいし、それしかないと思ったのです。
 
てくてく歩く
ボク達ハ
これからも
しっかりとね
福の種まけ
ボクらの前に
ボクらの後に

と書き上げました。大きな拍手をもらったので、そのことを話そうと思って中央マイクの前に立ち、お客さんのほうを見ると、ほとんどの人が泣いていたのです。僕も胸がいっぱいで何も言えなくなってしまい「一生懸命書きました」とだけ告げて終わりましたが、みんな何かを感じてくれていたと思います。2025年1月17日に行うライブペインティングではそのことを説明してから書くつもりです。僕も励まし、励まされる。そういう30年でした。
 

「小雨まじりの福井の朝」より

■僕らは存在するだけでいい


震災を経て、「僕らは存在するだけでいい」と思えるようになりました。もちろん頑張って働いたり、勉強することも大事だけれど、僕らが「いる」ことで神様との約束を果たしている。それを認識しておけば、いい意味で肩の力が抜けるでしょう。やがて命が尽きるまで、自分が得意なことをしたり、美味しいものの話をしたりする。それが一番だと思います。
 
(2024年12月6日収録)
 

<WAKKUN(涌嶋克己 わくしまかつみ)さんプロフィール>


1950年、神戸市生まれ。画家、イラストレーター、絵本作家として活躍。阪神・淡路大震災をはじめ、東日本大震災、コロナ禍、能登半島地震で創作活動を通じた支援を行う。先が見えにくい世の中でも前を向いてできることを考え、支え合いながら自分の命を全うできたらという思いで社会と関わりつづけている。

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