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添石良行と金武良仁
「本部朝勇の中国旅行」の記事で、明治43年(1910)、本部朝勇が旅券(パスポート)を取得して中国へ渡っていたことを述べた。また、同じ時期にパスポートを取得した人物が他にもおり、彼らは一緒に行動していたのではないかとも述べた。
彼らのうち、今回は添石良行と金武良仁について考察してみたい。
添石良行は添石流棒術の宗家である。「棒術の宗家、添石殿内」の記事で、筆者は船越義珍が出会ったという人力車の車夫は、添石良行の父の添石良術だったのではないかと考察した。
しかし、添石良行の生年がパスポートから1866年と確認でき、彼が船越先生(1868年生)よりも年長であることがわかったので、件の車夫は添石良行のことだったと思われる。父・良術だと年齢がさらに20歳ほど上がるだろうし、さすがにその年齢だと車夫を務めるには体力的にきびしいと思うからである。
文武館の喜屋武盛和先生によると、添石本家の棒術継承者は添石良行が最後で、その後は分家の添石良富が継承し、さらに古謝将進(松林流)へと受け継がれた。
ところで、添石家(添石殿内)は、五大名門の一つ、馬氏小禄殿内の分家であるが、金武良仁の馬氏金武殿内も小禄殿内の分家で、添石家と金武家は密接な関係にあった。
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写真は筆者撮影、2022年。
仲本政博『沖縄伝統古武道』(2007)によると、添石家から金武家に養子に入った人物もおり、そうしたこともあって両家は墓が隣り合わせになるほど密接な関係にあったという(171頁)。
また、本部朝勇の妻ムタシは小禄殿内の出身であった。本部朝基の葬儀は、このムタシさんが実家の小禄殿内からお金を借りて盛大に行われた。当時、沖縄ではまだ珍しかった霊柩車で本部朝基の棺が運ばれたので、葬儀参列者はその豪華さに驚いた。
つまり、添石良行、金武良仁、本部朝勇は親戚同士であり、こうした関係も、彼らが一緒に中国へ渡ったのではないかと推察した理由の一つである。
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小禄殿内、添石殿内、金武殿内の系図。
出典:
「添石良行と金武良仁」(アメブロ、2021年5月1日)。