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大城兼義と沖縄唐手研究倶楽部

沖縄唐手研究倶楽部は、大正末期に本部朝勇と宮城長順が中心となって設立した唐手の研究機関である。

内容的には、「空手(唐手)の専門学校」のようなものを作ろうというのが設立の趣旨で、場所は那覇若狭町にあった。当時の新聞記事によると、広さは15坪程度で、将来的には拡張の計画もあったようである。

戦前、京都には武専の略称で知られる大日本武徳会武道専門学校があって有名だったが、それのいわば「空手版」を沖縄に作ろうという構想だったのではないかと思う。

会長には本部朝勇が就任し、主任教授には宮城先生が就任した。この倶楽部を設立するにあたって、建物も新築したのだが、その資金について剛柔流では宮城先生が借金をして建てた、という口碑が伝わっているようであるが、上原清吉の話によると、大城無尽の「寄付」で建設されたそうである。

大城兼義と宮城長順

大城無尽というのは、当時無尽会社(金融業の一種)を経営していた大城兼義氏(1871年6月25日ー1951年11月11日)のことである。無尽(むじん)というのは今日では聞き慣れないが、頼母子講の一種で戦後は法律が改正されて、各無尽会社は相互銀行に変更になった。

大城氏は戦前の沖縄の代表的な実業家で、1925~32年の間には貴族院議員も務めている。『沖縄大百科事典』に彼について書かれた記事があるが、それによると、小禄間切(現・那覇市小禄地区)に生まれ、旧制一中に進学したが退学し、その後、長崎鎮西学院に進み、キリスト教の伝道師の資格を取得した。そしてさらに実業界に転身して華々しい成功を収めた。

下記の写真は昭和に入ってからのものだが、中央に写っている太田朝敷は、以前の記事でも紹介したように琉球新報の社長で、本部朝基とも若年の頃より知り合いであった。大城兼義氏との関係は分からないが、本部朝勇は按司だったので、ここに写っているような沖縄の政財界の人達とは面識があったであろうし、そうした関係で寄付を依頼したのかもしれない。

写真:前列右から、大城兼義、照屋林顕、太田朝敷、照屋宏。出典:那覇市歴史博物館

残念ながら、沖縄唐手研究倶楽部は経営的にうまく行かず、昭和に入って朝勇先生が亡くなるとともに閉鎖されてしまった。ただ史上初めて、唐手の共同研究教育機関を設立した意義は高く評価されるべきだろう。

沖縄に建設予定の沖縄空手会館は、ある意味では現代版「沖縄唐手研究倶楽部」とも言える。ここではセミナーや各種大会の実施、また空手や古武道に関する資料を集めた資料館の開館も予定されている。

出典:
「大城兼義と沖縄唐手研究倶楽部」(アメブロ、2016年7月27日)。

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