短編小説01◆おおまがとき
智(さとし)が母に会ったのは、母、さゆりの内に結晶する。それよりもずっとずっと遥か遠い記憶のようだった。
真夏の夕暮れどき。大好きなカナヘビが石垣の隙間から尻尾を出しているのを見つけた。家に帰る時間をとっくに過ぎていたけれど。あんな太さのヤツにはこれまで出会ったことがなかった。仕留めれば、間違いなく最高記録になる。友だちに自慢できる。もしかしたら新聞に載るかもしれない。ありとあらゆる欲望が噴き出した。親に怒られる心配なんて消え去って、ただただ「捕まえたい」と気が昂っていた。夕闇が迫る中、素早く勝負を決めなければならない。これまでものにしたカナヘビの数は優に五十は超える。心得ているのだ。着ていた服を全て脱ぎ捨て、日が陰って冷やされた石の壁に擬態した。殺気を消して距離を詰める。
「えいっ!」尻尾はあっけなく途中から切れて、掴まれている親指と人差し指から逃れようと必死で暴れていた。まるで自分の意思を持っているみたいに。次の瞬間。あろうことか。それに噛みついていた。頭ん中に電流が走った。
「おい。 さとし。 大丈夫かっ」
近所のお爺の声が遠くで聞こえた。その後の記憶はない。泡を吹き、身体を右へ左へとぐるぐる回転させながらもがいていたらしい。かけつけた救急隊員は、てんかんの発作だと思って処置したが、最初に触れた智の皮膚が子供のものとは思えないほど固く、死人のように冷たくなっていたことに気味悪さを感じたらしい。運び込まれた病院には、一日だけ検査入院したが、智の身体に何ひとつ異常は認められず、退院後は、何事もなかったかのように夏休みを謳歌した。診断書には低体温症と記載されていた。
「起きて。ねぇ。もう何回も起こさせないでよ」
茉優(まゆ)は、いつになく不機嫌そうな口ぶりで寝室の外から声をかけた。
「おはよう。とっくに起きてるよ」
バタン。玄関ドアの閉まる音が響く。智の返事をスルーして。どうやら先に出かけてしまったらしい。七連勤明けの休日ぐらいゆっくりさせてほしいものだ。
抜けない酒を身体に留めたままシャワーを浴び、身支度をして外に出る。ふたりの行きつけの居酒屋に向って川沿いの遊歩道を歩く。大潮のうねりを伴い遡ってくる強い水の流れは、十数キロ下った先にある海の匂いを纏っているようで、どこか懐かしさを覚える。風が心地いい。落日までの束の間。どこからともなく流れてくる音楽に和まされる。このひとときが、何とも言えず好きだ。
「ほら、この音楽。夕方になると流れてくるでしょ」
「これって子供たちに、お家に帰りなさいって意味だけじゃないこと知ってる?」
いつか茉優が教えてくれた。地震による津波や河川の氾濫、クマやイノシシなど害獣への警戒を知らせる防災無線が、それぞれの地域の住人たちに間違いなく届いているか。その試験放送として全国的に始まったらしい。
「こんな童謡。今どきの子供たち。知ってるかな?」
「どうだろうね」
「音楽なんて何でもいいのにな。トップガンの主題歌流れたら笑える」
「笑えないっ! でも。静岡の富士吉田市はフジファブリックの『若者のすべて』を亡くなったメンバーの誕生日にだけ流すんだって。命日じゃなくて。誕生日っていうのがハッピーで。なんかよくない」
子供の頃から奇妙な夢を繰り返して見ている。それは、茜色の空と枯草の匂い、生きもの特有の生臭さに囲まれながら、得も言われぬ高揚感と興奮が同時に押し寄せる。普段の生活では使ったことのない嗅覚と聴覚をフル稼働して、ときが来るのを待っている。それは過去に置き去りにしてきた。いつまでも思い出せない忘れ物のような何か。ただ、夢の中では、母が決まって口ずさむあの歌が聞こえてくるたびに、ぞくぞくするような感覚だけが蘇ってくるのだった。
遠き山に日は落ちて。星は空を散りばめぬ
今日のわざをなし終えて。心かろくやすらえば
風は涼しこの夕べ。いざや楽しきまといせん
真っ赤なランドセルを足元に置くと、明日の時間割を確認しながら教科書とノートを揃えて並べる。筆箱から出した鉛筆を削り終えた短髪の少女は、窓辺に移動すると。ぐぅーっと身体を伸ばした。夕焼けを眺めているのだろうか。外から聞こえてくる音楽に合わせて少女の鼻歌が部屋に響く。ぞくぞくする。まもなく獲物にありつける。それは薄いプラスチックの向こうからやってくる。身体を掴まれ頭を何度もなぶられる。それから解放されれば。たっぷり腹を満たせる。早く捕まえたい。渇望がノドの奥から湧き上がり、小さな音になって放たれる。身体をよじる。
「わかったわかった。今あげるから。待って」
少女がなだめるように話しかけながら。ケースに入ったコオロギをピンセットでつまむと鼻先に置いた。カナヘビは間髪入れずかぶりついた。
「さゆり。早くお風呂入りなさい」
「ねぇ。その気持ち悪いのいつまで飼うつもり」
「しっぽが生えてくるまで!」