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パントマイムを「無言劇」の意味と知り、私は愛を知る。
第三のビールが、190円でコンビニで売っているので、私もたぶん何かの第三勢力なので、その誇りを胸に、いつか皆さんと一緒に酔っ払えることを夢見て、190Pから始めて貯めていきたいと思います。気にせず読めますので、乾杯して、ゆっくりはなしを聞いている気分でお楽しみください。
「パントマイムだよ。『パ』『パ』『パ』分かる?言える?『パ』」
抱き抱える子供の眼を見ながら、どうしたってこぼれてしまう笑みを周囲に隠さないように、母親は母親を謳歌しているように見える。
私は、なぜこの光景を正面で向き合う形で見ながら電車に乗っているのかを考えていた。ラッシュを避け、急行にも乗らずに各駅列車を選択した自分は、早くも私に必要な一場面に出会っている気がしていた。
「タントマイム」
何度声に出しても子供は「タントマイム」と、発している。敢えて間違えるように「タ」と発しては、手を叩いて笑っている。笑い声も「タ」に聞こえそうなくらいだ。
母親はその都度「パントマイムだよ」と頬をすりよせながら子供を目一杯に抱き寄せて、声にトゲがなく優しく話をしている。その優しさは、周りにいる私ですら潤う気持ちになってしまうので、優しさで人を包むことが出来る母性の凄さを知ることが出来る。願わくばその母性にあやかって私も包んで欲しいとさえ思えた。そしてその母親は、私からすれば包まれるには充分に柔らかそうな身体を持つ母親だった。
私はこの光景を正面に見ながら、各駅列車を選択した自分を褒めたくなっていた。こんな親子劇団に出会えるなんて拍手でもしたい気分だった。私も劇団員の一人となり、一駅の間だけでも隣に座ってみて、一瞬の仮初め夫婦を演じてみたくなっていた。一瞬で良いのなら、端から見ればとても良い父親にだってなれる気がしていた。
そして、いつもの私なら、この子供の代わりになり、母親の柔らかそうな感触を想像して子供の代わりに幸せな気分に浸るだろうと考えてもいたのだが、なぜだかこの日の私に引っ掛かったのは、もっと別のことだった。
私は「パントマイム」の意味を知りたくなったのだった。
無言劇。「パントマイム」は無言劇という意味だった。私はこの意味を知った瞬間に、先ほど親子劇団と提唱していた私の仮説はあながち間違っていないような気がしてきていた。そして、この出会いこそが私と正面の親子との無言劇ではないのかと考えたくなってしまっていた。
すでに開演してしまっている。
私は、正面の親子から渡されたバトンを握りしめ、探偵役さながらの「パントマイム」をしながら、子供が演じている「タントマイム」は「タントマイム」という「パントマイム」の無言劇ではないのだろうかと感じていた。
なぜならこの「タントマイム」は、母親に母性という愛情をこれでもかと溢れさせている。無関係な私でさえこの場で母性愛に目覚めそうなくらいにだ。それこそ無言劇で「たんと」愛情を与えている。
私は気付いてしまった。「たんと」。
子供は「たんと」無言の愛情を与えている。
だからこれは「タントマイム」なのではないだろうか。やはり、この無言劇はとんでもない「パントマイム」だと思うに至った。そして、それに気付いた私も、この物語にもう欠かせない探偵「パントマイム」になっていた。
そして、この仮説を立証するには「パントマイム」とは、本当に「パ」でなければ成立しないのだろうかということを検証しなければならないと考えた。私にはどうしてもそれを「パ」でなければダメだとは言い切れなかった。試してみたくなってしまった。「パ」でなくとも「パントマイム」は「パントマイム」になれるのではないかと。奇跡の「タントマイム」を目撃していた私には次々に頭の中に溢れる「パントマイム」劇場をもはや止める術を知らなかった。
目を閉じて、目の前にいるかなりタイプの女性を想像した。この女性がもし「パ」ではなく、「ア」から始めた「アントマイム」を演じ始めたらどうだろうかと考えた。今までで一番頭が冴えている冷静な私の目の前に浮かんだのは、反射的に「アントマイム」をしている伏し目がちに雪の肌を覗かせ喘いでる女性だった。
これは瞬時にヤバいと思った。と、同時に私の中のもう一人の私が条件反射的にゾクゾクしてきていた。久しぶりに自分自身の表裏一体の二面性を知ることになり、少しだけ嬉しくなっていた。
こんな「アントマイム」の無言劇を、もし目の前で魅せられたのなら、誰でも簡単に落ちてしまうだろう。私はかなりタイプの女性に手を伸ばしてしまいたい欲望に駆られてしまっていた。
そしてこれは、恋でなくても進んで落ちてしまう類いのものだった。
これは、とんでもない遊びを思いついてしまったと感じていた。私はこの衝撃を誰かに伝えたくて震えているくらいなのに、もしそれを声に出してしまい、大きな声で説明してしまったのならば、私の人生も今後一生「パントマイム」になりかねない危険を感じていた。
そして誰にも言えないからこそ、私はこの冒険の先に進み、言えない結末を探しに行かねばならなかった。
なぜならば、無駄こそが至宝だからだ。
そして私は、轍もなく先に何も無い道を進むことこそ好きだった。
次に「イントマイム」を女性に演じてもらった。「アントマイム」の余韻が未だに残っているのか、身体の曲線が固さを忘れたように滑らかになっていて、さらに抱き締めたくなる曲線をしていた。「イントマイム」の無言劇も、やはり、かなりタイプの女性は喘いでいた。「アントマイム」効果により、先ほどより激しい迸りを感じていて、このまま進むとある種達してしまうのではないかというくらいだった。
次の扉は勝手に開く。もはや自動ドアに変化してしまったのは私のせいではなく、この無言劇を観覧しているお客様のカーテンコールのような気がしてきていた。
劇場では「ウントマイム」が繰り広げられている。やはり、ここでも喘いでいた。それは必然の喘ぎのようにも思えていた。今までの「ア」と「イ」が助走でしかなく、涙が落ちそうなくらい潤んでいる瞳を見た。それが瞳なのか、実際は瞳の形をしたナニカかも知れないが、そこに異を唱えるものなどいなかった。
そして、これこそが本気の「ウ」の気がした。「ア」よりも「イ」よりも「ウ」の方が一番本気の気がしていた。これを見てしまった自分は、今後何度も女性と共にすることで訪れるチャンスに「ア」や「イ」しか聞けなかったとするのなら、私はこれ以上ないショックを受ける気がしてきていた。「ウ」は、それほど本気の瞳だった。
何だか、五十音が怖くなってきていた。
「エントマイム」になると、かなりタイプの女性はエンエン泣いていた。私は、勝手に想像してしまって、勝手に女性を泣かしてしまうまで傷付けてしまったことを恥じ、心から謝罪した。
そしてそれは、本当に謝罪だけで済む問題なのか不安になってきていた。
「オントマイム」になるとそれはやはり確信に変わっていた。私の謝罪が足らなかったのか、誠意が足らなかったのか「怨トマイム」なのではなかろうかというくらい怖い何かを放っていた。私は逃げ出したい気持ちを避けるために、アイウの三段「パントマイム」をもう一度振り返り、やはり母音は強いな。ボインは強いな。と思考を変化させ、恨まれていても最後まで抗うことをしながら、つねに邪な気持ちで戦える自分が嫌いではなかった。
根っからのハンターでありたい。
何より、アイウの三段女性は、意識の外側を見ているようでいて恍惚としていて可愛いかった。
不純ほど好奇心が沸き立つことを、私はすでに知ってしまっていた。
かなりタイプの女性に存分に恨まれたところで、私は現実に戻って来たのだが、この遊びを五十音すべて試してしまったならば、私とかなりタイプの女性の関係は、いったいどうなるのだろうかと考えていたのだが、それをしてしまうと「タントマイム」の子供に申し訳ない気がしていた。私も充分にこの子供から「タントマイム」を貰っていて、その結果かなりタイプの女性に愛を貰うことに成功し、そして恨まれた。
これ以上は贅沢だ。
各駅列車での出会いは、私に無言劇の素晴らしさを教えてくれた。
これからは、喋らずとも身体で意思を伝えることを少しだけ意識しようと思った。
列車が停車し、親子がゆっくりと降りていった。抱っこされてこちらを見て遠ざかる子供と、その母親の背中にウインクをしてみたのだが、私の無言劇は伝わってはいないだろう。
純粋なあの子供のように、不純な私が「タントマイム」に達するには、まだまだ時間がかかりそうだった。邪な気持ちを捨てたくはなかった。
待ち合わせの急行列車に乗り換える親子を見ながら、私は誰も居ない各駅列車に座ったままだった。
駅を飛ばしてまで、大人になることを急がなくてもいい。進んでいればそのうち誰でもなれるのだから。一歩一歩をゆっくりと楽しむことしか私には出来ない。急ぐ必要のない時間そのものを楽しむことにした。
そう考えながらも、女性に対して段階を何も踏まずに、急行で終点まで直行で行こうとし、結果のみを求める自分も、やはり好きだった。
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