SNSから距離を置いたら見えてきた、私の個性を書き残す意味
個性が大事と言われ、何年くらい経つのだろうか。その言葉を目にし始めて、個人を尊重することとは、1人1人を大切にすることだと教えられる。
個性をその人らしさとして、それを尊重するのが望ましいとなる。
普段目にする個性や個人は、どうしても情報の速さという上でSNSが主となっている。
人と違うことをして、人には経験出来ないことを体験し、その価値を提供することで認知されていく人達が多い。
毎日、日替わりで新しい人達に画面上で出会う。
これに素直に対応出来ない自分がいる。
頭ではすごいなと感じていても、そのすごいなと感じられる深度が浅くなってしまっている。
携帯の画面をスクロールする様に一瞬しか心に引っ掛からないのだ。
1日のうちに携帯を眺める時間だけが増えていき、自分が嫌な方向へ進んでいるのが分かった。
視座を変え、なぜ感動が少なくなり心を揺り動かすことが出来なくなってしまったのだろうと考えた。
それは、輝いている人達の自分らしさの裏にある承認欲求や、自己顕示欲を直に感じてしまうからだと思った。
他の人の自分らしさを毎日浴びて、自分の自分らしさの表現の仕方を見失っていった。
個性や個人というものを人に発信しなければならない風潮に軀がついていかなくなっていった。
自分で自分をわからないのに何を発信するのか。
なぜ、自分を表現しなければならないのか。
なぜ、他の人を見てその前向きなエネルギーを浴びて、自分が劣等感や嫉妬心を感じなければならないのか。
というものに、どんどん心が囚われるようになっていった。
ある時、ある人の言葉が刺さった。
「やりたいことはあるけど、今の人生じゃ間に合わないから、次の人生くらいで叶えようと思っている」
ああ。そうかと思った。
私は、今回の人生では輝く主役のターンではないのだ。
それを無理して、どこかで何者かである様に見せようとしていた自分に疲弊しただけなのだと思えた。
心が軽くなった。
それから私はSNSから距離を置いた。見えてきた自分は、自分の思想を自分の文体に乗せたいという欲求だけだった。
特別なことが起きない日常を、自分の表現で書き残したいと思うことだけだった。
自分が輝く主役ではないことを楽しみながらSNSと距離を置き、結局光り輝く脇役としてSNSに書き残している自分が好きだったりする。
個性や個人を無理に発揮しなくても良いと書き残したい。
普通だって昔、誰かが残した個性だ。
それを残したい。