9/30(金)Tinderの男と川沿いを歩く
Tinderをやっている。
それは2年に1回くらいの周期でやってくる。まあ大体は直近の別れが関係しているのだが。何かこういう言い方をすると「誰でもいいから寂しくて」という風に取られがちだが(その原動力自体は何の悪でもないはずだが、なぜだか人は愉快そうに・侮蔑的にその言い回しをつかう)、理由はだいたいいつも複合的で、今回は「仕事の話」「自己紹介の訓練」「市場調査」「ポリ猗窩座」などを主軸にしていた。
「ポリ猗窩座」は友人との会話で生まれた単語だが、『鬼滅の刃』で鬼の猗窩座が見込みがある人間(主に杏寿郎)に対して「お前も鬼にならないか?」とスカウトする行為からきている。
「お前もポリにならないか?」
見込みがある人間にそうやって誘っている。そもそもちゃんとプロフィールに書いてあるのでそう突然な誘いでもない。はず。
マッチングした人たちは下心か誠実さかただの好奇心か知らないが(あるいはすべてか)、「一応単語を調べました」という人が多くてマメさに驚く。そう言われると感謝しかない。私ではなくて別の誰かがいつか収穫すれば良いとも思っているので、種まき行為としてはすでに任務が完了していると言っても差し支えない。
話は飛んだがそうは言っても初めから一方的に「ポリアモリーとは」を演説するわけにもいかないので(その人にとって初めてのポリアモリー概念だった場合なるべく第一印象を悪くしたくない、中長期的な影響をかんがみて)、
だいたい初めのうちは相手の話を聞いている。仕事の話、趣味の話、地元の話。
今日の相手はTinderを久しぶりに使い始めて最初のほうにマッチしたものの、メッセージのやりとりが途切れ途切れでかなり終盤に会うことになった人だった。(数えてみたら8人くらい会っていた。スケジュールが無茶になっていたのと、心情的にも満足したので今回はもうこれくらいにしたい)
「仕事が押してしまって」と、急いでタクシーに乗って店までやってきた彼はスーツを着こなしていて身なりが良く、エピソードから漏れ出る金払いの良さと、順序立てられた話に緩急のつけかたも上手いしゃべり方で、きっと仕事ができるのだろうと窺えた。
社交的で、スムーズな人生を生きていそうな人だ。
予約してもらったお店は美味しかったのだが量が多くて食べきれず、もてあましていると「無理しないでいいよ」と言う。私は「残さずに食べる」という教育を何故か守り続けているタチで、そう言われると躊躇してしまうのだが、「本当に無理しないほうがいいよ。俺は前に仕事頑張りすぎて精神疾患になって、それから"無理しないこと"に気を付けているから」と続けられたので、納得してそれ以上食べるのをやめた。
食後のお茶を飲んでいたら、急いで食べた影響か気分が悪いということで、川沿いを散歩してから帰ることにした。この街に川があるなんて知らなかった。
外の空気を吸うと彼の顔色もよくなったので会話を続ける。
「考え事するときは散歩する方がいい」と精神疾患を持つ友人に助言されたことがある。その話をすると、彼も「本当にその通り、よくわかってる」と共感していた。私も共感する。
体を動かすと悩みや不安の方向性が少し変わるのだ。少しだけ。そしてそんなに気軽に「散歩しよう」なんて思い立つことができる余力がある時だけ、使えるハックでもある。
気分が良くなると些末な話も増える。通りすがりの神社。車の交通量。アプリで会った変な人。彼のバイタルの上下を見守りながら(幾度とない既視感に包まれながら)、そうして秋の川沿いの、暗くて静かな空気の中を歩く。
私たちは病気である。私たちにとってそれは確実に自分の一部を形成している。それは一面でしかないとも言える。
「治った」と「病気の自己」の間を行き来する。そんなものなのだろう。