11/28(土) 身体に張り付く汚物感
少し外出したあと、電池が切れたように長らく布団に籠っていた。土曜日だから、いくつかのグループLINEにぽつぽつと会話が投下される。何もできないこんな日には、知り合いの文章くらいがちょうどよい。会話を読んだり、まどろんだり、考え事をしながら長らく寝そべっていた。
0時過ぎ、ようやく気力が戻ってきて、洗濯機が完了の音を鳴らしてから1時間ほど寝かせた洗濯物を干し始めた。ついでに湯船にお湯も張ってみる。お風呂で本を読む、という行為に味をしめたのだ。湯船に浸かりながら、心地よく本に没入すると、暖かさと湿度と、静けさが心地良くて気持ちがいい。
小学生の頃はお風呂が嫌いだった。アトピーだったから。
朝起きた時、まず覚えがあるのはパリパリ、という感覚だ。寝ている間に引っ掻いてしまったのだろう。血やら何やら染み出た体液が、パジャマやシーツと「癒着」している。起きると剥がれてパリパリ、という音がする。日中は痒くても我慢したのに。でも引っ掻くと気持ちがいいことを知っているから、まどろんでいると「やって」しまう。痛い。汚い。惨めで不快だ。
お風呂に入ったり、シャワーを浴びると沁みて、痛む。ボディーソープも、石鹸も。「体を綺麗にする」という空間で、毎日毎日、痛みを我慢する。入りたくない。でも、入らなければもっと痒くなってしまう。お風呂場の鏡も憂鬱だった。引っ掻いて、かさぶたまみれで、赤黒く痛々しい体。運動もせずに家に引きこもっているから、生白く不健康で、だらしない。
「こんな体ではきっと誰にも愛されないだろう」と、小学生の時点で、私は早々に知っていた。穏やかな学年だったのでことさら私のアトピーをからかうような人はいなかったが、それでも私自身が私のことを、強く、「気持ち悪い」と思っていた。それなのに身なりを気を遣うなんて惨めで、体のラインが出ないぶかぶかな服、地味な色、武骨なデザインの男児向けの服ばかり着ていた。
アトピーは成長すると落ち着くとよく言うが、幸運にも私の症状も中学生になると落ち着いてきた。ようやく少し鏡を見れるようになり、皆と同じようにスカートを折って、紺のハイソックスを履いた。(地方と年代により流行りがあるようだったが、あの時、私の地域では「普通」、制服に合わせる靴下といえば紺のハイソックスだった)
「どうしたの?恋でもしたの?」と冷やかされたが、(むしろ今まであまりにも粗雑だったため、「触れてはいけない」空気すらあったのだろう)私はただ、ようやく「許された」ような気がしたのだ。スタートラインに立つことを「許された」。スカートの丈や靴下なんて、気にしてどうするのお前が?という視線が、ようやく少し黙ってくれた。だから遅ればせながらに、一歩を踏み出すことができたのだ。
そんな視線は被害妄想かもしれない。しかし、私は小学校から中学校に上がるにつれて、私の価値は低い、ということに気が付いていた。
たとえば、グループワークで連絡先を交換しようという時に、ほかの女子たちの前では速やかに携帯を持ち出す男子たちが、私(または私と同じように粗雑な見た目のものたち)の前では携帯など持っていないかのように振る舞うこと。
たとえば、夏祭りに行って美人なクラスメートと話したあとに見知らぬ男子がやってきて、「今の子ってなんて名前なの?」と、当人ではなく私に突然聞いてくること。小動物のようで可愛らしい友人が、別の学年の男子に一目ぼれされてしまって、帰り道についてくるので一緒に帰ってほしい、と頼まれること。
私は空気か、交換手か、壁役にしかなれない。そこに居る時の、彼らの、「お前じゃねんだよなあ」という顔。を知っている。
「ただしイケメンに限る」を笑って話す男どもの、そのもっとさらに下、に私はいた。長らく。「女は股を開けば生きていける」と揶揄するものたちが、その一方であけすけに、醜い女や老いた女を笑う。彼らの前では、私たちは「女」ではない。「女」でないものは人間ではない。モンスターなのだ。
「不細工」であることを売りにする芸人の男が美人なパートナーを得られても、その逆は見たことがない。オリンピックでメダルを取っても、地位も名誉もある研究者や教授であっても、彼らは一言で覆す。「でも、ブスじゃん」「オエーッw」。
のび太がジャイ子と結婚するのは説明の余地もなく当然に不幸な未来で、のび太がしずかちゃんと結婚するのは説明の余地もなく当然に幸福な未来のように。私はあの時間違いなくジャイ子だったから、「オエーッw」と言われる側だったから、『ドラえもん』という作品は永遠に好きになれないだろうと思う。
幸運にもアトピーが落ち着いた私はそれなりに身なりを整えることができるようになって、身なりを整えたあとであれば、「女」として認知される地位を得ることができた。「女」と認知されれば、ようやく「普通」に話を聞いてもらえるようになって、人権を得たような気がして嬉しかった。
恋愛、のようなこともできるようになって。経験を重ねて。自分の身体や容姿を、そこまで嫌いだとは思わなくなった。人前に出ることが前ほどは怖くなくなった。
それでも、未だに時たま引っ掻いてしまう箇所に薬を塗るたび、思ってしまう。「もし、症状が落ち着かないままだったらどうなっていただろう」。
あの人と親密な関係になることは可能だっただろうか。今みたいに気軽に身なりを整えられるようになっただろうか。「気にしない」ことができるようになってできた心の余裕を、すべてもう一度失ったら私は、どうなるのだろうか。
どこか、並行世界に、「症状が落ち着かないまま」だった私がいるような気がする。彼女は言う。
「良いよね、あなたは。幸運だったんだから」。