12/29(火)掴まれる喉―ゲシュタルトセラピーと身体感覚
とにかく私は『キレる私をやめたい ~夫をグーで殴る妻をやめるまで~』(田房永子)を愛読している。2カ月に1回くらいは読み返している気がする。
そして何度も「ああ、わかる」と「でも自分は治ってきたかも」と「今のままじゃ、いやだ」をぐるぐると繰り返している。読み返すたびに新しい発見をしてはツイートし、田房永子氏の最新刊や新連載をまだかまだかと心待ちにしてしまう。
作中ではゲシュタルトセラピーを受ける描写があり、私はいつもそれを見て心底「いいなあ」と思ってしまう。ゲシュタルトセラピーは「今、ここ」の感覚を重視して、「気づき」を促すようなセラピーだ…と書いてもわかりづらいと思うので、作中の様子を簡単にまとめる。
著者は、司会者にいま抱えているトラブルを打ち明ける。司会者は身体感覚を問いかけて、深掘りする。そこで著者には「夫に怒っている自分」と「夫をいいなと思っている自分」という二つの葛藤があることがわかる。その葛藤に座布団を用意して居場所を与えてみて、それぞれの座布団に座ることで、気持ちを表出する。最終的には「夫に怒っている自分」に「母」の要素を感じて、母がそこにいる体で新たな座布団が用意される。母に怒りをぶつけ、また母になりきって会話することで、「なんかアホらしくなってきました」と、からっとした笑いさえ出てくるのだ。
そしてその後、著者のマグマのような怒りは消えて、「レベル1のアクションにレベル1で返せる」という描写が現れる。
…何度も読み返しては、何度も「いいなあ」と羨ましくなってしまう。でも、怖い。でも、自分はそこまでじゃない。…とゲシュタルトセラピーを検索しては予約をせず閉じたり、興味を打ち消すような振る舞いを繰り返してきた。が、仕事があまりにも忙しいこと、その忙しさを上司に上手く伝えられずに影でキレて、部屋で一人泣いてしまうことを繰り返し、「いまのままじゃダメだ!」と急に思い立ち予約を入れて、先日体験してきたのだ。
当日は「私もきっと母に怒りがあるだろうから、それをぶつけてすっきりするんだ」という期待と、「でも変に冷静なままで、わざとらしい演技だけしてしまったらどうしよう」という一抹の不安を持ちながら、自分の番が来た。司会者に何の話がしてみたいかと問われ、答える。「思考がまとまっていない時に喋ろうとすると、上手くできないんです」。
細かいトラブルや長い人生史はあれど、単発のカウンセリングを受けたり日記を書くなかで、どうやらいつもここだけは共通している。普段はおしゃべりで長話すらしてしまう私が、ぱたりと話せなくなる時がある。悩みや辛いことがあり、「モヤモヤ」が上手く説明できない状態だと、喉が詰まって泣いてしまう。その時その瞬間もまさに「そう」なっていた。
「それはどういう感覚ですか」と問われる。喉が締め付けられるように苦しい。喉はどういう風に締め付けられていますか…と問答を繰り返して、出てきたイメージは「私が、私の喉を、”ちゃんとしなきゃいけない”と締め付けている」というものだった。母でも家族でもない、「私自身」。正直他人やトラウマを外部化して感情をぶつける気満々だったので驚きつつも、しかし「締め付けている手」は「たしかに私のものだ」と身体が言っている。
「私を締め付けている私」=管理者と、「締め付けられている私」=私、がいる。クッションを二つに分けてみる。ああ、この「締め付けられている私」がいかに自由になって自信を取り戻すか、というストーリーになるのだろうと頭の片隅で冷静に予想したが、結論から言うとそれも外れてしまった。
司会者の質問に答え、時にその場でクッションを上から押さえつけてみたり、その場に寝そべったり、身体感覚とともに潜ると、辛いとこぼすのは「管理者」だった。「私」がちゃんとしたい、と言ったから手伝ってあげてるのに。今さらちゃんとしなくても大丈夫かも、楽なのがいい、とか言われても困る。「管理者」はやりたいことなんて無いのに、「管理者」の私はどうすればいいのかと、寂しそうに体育座りをしてしまう。(いつの間にか、その姿勢をとっている!)
では、どうしたらいいと思いますか、と司会者に質問される。「私」は「管理者の私」をどう思っていますか。何かアイディアはありますか。
「私」のクッションの上でリラックスしてだらりと座っている私は考える。「私は楽に生きていきたいし、気分が乗ったら楽しいこともしたい。気分が乗ってるときだけ、楽しいことを一緒にやったらいいと思う」。
「管理者」のクッションの上で体育座りをしている私は答える。「気分が乗ったときだけ、って、じゃあそうじゃない時はどうしてたらいいかわからない。不安だし、誰かの役には立ちたいから、寂しい」。
「私」のクッションの上でまた私は考える。「私は楽しければそれでいいけど、君は楽しいだけじゃダメなのかもね。楽しくて、それで技術を磨く必要もあるような、カッコいい感じのことを一緒にやったらいいのかも」「楽しくてカッコいいことを一緒にやればいいんじゃない?」。
それを言われた「管理者」はどんな顔をしてますか。と司会者に質問される。「うーん、カッコいいこととか馬鹿っぽいし恥ずかしいけど、でも図星。って感じで困った顔してます」。
自分の困ったような顔なんて鏡でも写真でも見たことがないけど、しかし何となく思い浮かぶ。たしかにこの人はいま、「えー…でもー…」みたいな顔している。「私」はそれを、「こいつ、こういう意地っぱりでカッコつけなとこあるよなー」とのんきに見ている感覚がある。この人のこと見透かしているけど嫌いじゃないし、不快じゃない。不思議な感じだ。
最後は、「管理者」が「私」の提案を満更でもない感じで受け入れて、和解のはこびとなった。
司会者に、いま「私」は「管理者」と一緒にいる感じがしますか?と聞かれる。
「私」は答える。「私は管理者のこと、ずっとそばにいる感覚だったし嫌いじゃなかったし、押さえつけてくるときもまあいいかって思ってたけど、管理者はそうじゃなかったんだなって思います。いまはそばにいるというか、友達っぽさが上がりました。管理者もいろいろ悩んだりしてたんだなーってわかって」。
「管理者」は答える。「私はいままで別の部屋にいる、自分が上の部屋から「私」を見ていたけれど、いまは一緒の部屋にいる、そばにいるって感じがします」。
「私」と「管理者」の感覚、もともとそんなにズレていたんだ!という驚きと、「能天気な天才肌」×「神経質な努力家」風のすれ違いにBLみすら感じて、ちょっと面白くなってしまった。
喉が苦しい、抑えられて苦しい、抑えていて苦しい。話しながら動揺し、上手く喋れずに泣いてしまっていたはずが、問答を繰り返すうちに「そんなことを考えてたんだ」という些細な気づきの繰り返しで、いつの間にか笑ってすらいる。はじめ感じていたはずの「喉が締め付けられるような苦しさ」は無くなってしまった。
喉を締め付ける手。だらりとリラックスした体。別々のクッションに座ること。困ったような表情(を思い浮かべること)。そばにいると感じること。
それは私の身体感覚が「私」と「他者」の間を行き来する、奇妙で暖かい時間だった。「私」が「私」であることを忘れていたし、「私」が「私でない」ということに新たに気が付いたりもする。
「私」がいかに「私」の声を無視してきたか。支配し、操縦し、上手くいかないことに激怒してきたか。または分離させ、「私」を守ろうとしてきたのか。
今回のゲシュタルトセラピーで「レベル1のアクションにレベル1で返せる」平穏な日常が手に入るのかはわからないが、しかし印象的で強烈な体験だった。
「私」は「私」と手をとりあって、生きていくことができるだろうか。(できたらいいな)