「うちは全然お金持ちじゃないよ」って言ってる人の実家がエレベーターとサウナ付きの一軒家で、三兄弟全員が奨学金無しの私立大学卒だった。
今回のお話はみんな大好き❤️あたいも大好き❤️❤️
そう、お金がテーマですわ。
タイトルでも察してもらえるように経済的な格差についても触れる。けれど、それをむやみやたらに煽り立てたり、富裕層の人間を悪者みたいに描写したりして、うちら庶民の溜飲を一時的に下げるようなお下品娯楽記事にはしまへん。
あくまで、あたいが感じ取った《育った環境による価値観の違いという存在》に注目する。
あたいのフォロワーさんや読者の方々もいろんな人が存在していて、さまざまな生活水準や経済観念の価値観が混在している。最近は石油王のフォロワーも多いと聞いた。あたいは石油や油田を持ってない。ローションしか持ってない。だからその人達の価値観の基準がわからない。けれども石油王や裕福な人も、困窮を経験している人も、誰もが実感を持って読める内容にしたい。
ほな書いていくで。
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ほな書いてくで。と格好をつけたものの、まずは毎度のごとく、自分語りからさせていただきますわ。
自分語りは大事ですわ。自分のことを話していないと、自論を開陳する際に「誰だよこいつは。よく知らずに分かったふりしやがって、偉そうなおっさんめ……😠」という印象を与えてしまうけれど、前もってある程度の自己情報を開示しておくと「まぁこいつもいろいろ経験してるのならちょっと耳傾けてやるか😄」という風に、心に留めて聞いてもらいやすい。特にマイノリティーや家庭環境の話は当事者性が説得力を持たせてくれることも多い。
もちろん、聞き手と話し手が似たような経験をしていた場合、同じ立場の者同士だからこその不毛な不幸の背比べ(「自分の方が大変だった」「あなたとはここが違う」みたいな比較)も起きやすくもなる。
それでもやっぱり何かを語り合う時には、お互いに同様のことを体感として知っている方が、相手の苦しみや気持ちを想像しやすくなると思う。ものによっては経験していないと口出しできないってこともきっとあるだろう。(被害者の会や自助グループなど)
ただ、仮に相手と同じ経験をしていなくても、立場が違っていても、寄り添ったり、物理的な支えになるということも最大限の配慮だと、あたいは思う。たとえば石油をあげたり。だから何でもかんでも共感したり経験しなくてもいい、とも思う。
つまり「なんか自分にはよく分からんけど、あなたにとってそれは大事で、大変で、忘れられない経験なんだね」という距離感で、相手の抱えるものを軽視しない姿勢こそが大事なんだと考えている。もちろんこれは相手と経験が重なっていても必要な考え方だ。だって同じ物事や経験に対しても、人の感じ方はそれぞれだから。
まぁそう考えると結局、今回のテーマで自分語りが必要になるか分からないけれど、とにかくあたいは語りたいので書いていく。
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あたいが物心ついて間もないガキンチョの時分には、もうすでにうちの家はてんやわんやで大変だった。
望月家は、母ちゃんと父ちゃんと姉ちゃんの3人家族の頃から波乱続きの家で、常に家計が不安定な家庭だったようだ。おかげであたいが保育園に通い始める頃には、もうすでに偽装離婚を済ましていて父ちゃんは家におらず、あたいは女二人に囲まれて地方のオンボロ団地で暮らしていた。だから物心ついた時からずっと母子家庭で育ったと言ってもなんら遜色無い。あたいは小学校に上がる時期に自殺してしまった父ちゃんの顔を、遺影でしか覚えていないのだから。
また、あたいがまだ幼少期であった一時期には、生活保護に頼らざるを得ないくらいの困窮した状況に陥っていたようですわ。あたいは幼かったので、うちの家がどれだけの期間、生活保護を受給していたのか定かには知らないけれど、おそらく一年以上は貰っていたと思う。姉ちゃんが高校を卒業して、水商売と昼職でお金を稼ぎ始めてからはさすがに不正受給となるから辞退したとは聞いている。
あたいが大きく育って高校に上がってからも、機能性不全家族ゆえに母ちゃんから経済的な虐待を受けていたため、あたいは未成年売春をしたのちに家出した。そして姉ちゃんと共に母ちゃんから縁を切り、そこからゲイ風俗勤めや貧乏学生生活となんやかんやあった人生でした。総じて貧乏で、友人に恵まれたので楽しかったけれど、だいたいお金には困っていたと思う。
まぁこの半生に対して可哀想だなんて思って欲しいとは考えていないし、あたいだけが壮絶かつ特別な経験をしたんだとも思いませんわ。あたいのような家庭で育った大人はたくさん存在するし、きっと大人になる前にこの世を去った子どもたちもたくさんいるだろう。
ただ、一つだけ付け加えておきたいのが、あたいは幼少期から青年期のこの家庭環境に負の感情を抱いていたけれど、実のところ経済面においては、あまり不便だとか、貧しくて悲しいだとか考えてはいなかった。
「井の中の蛙、大海を知らず」や「足るを知る」では無いけれど、そもそもあたいはお金持ちの家庭環境を知らなかったし、普通の家の事情も思い馳せることのない人生だったので、自身の家庭の食生活や経済観念に疑問を持つ機会も乏しかったのだ。
まずガキンチョのあたいにとって、家賃を滞納したり、親が税金を払っていなかったりする経済面のルーズさは常のこと、炭水化物や冷凍食品、スーパーの半額のお惣菜やインスタント食品だけが並ぶ食卓もそれが当たり前だと思っていた。
中学生の時、友達の家で唐揚げをご馳走になった時にはじめて「揚げ物って家庭でも作れるんだ!」と知った。揚げ物は、お惣菜や出来合いで買うものだと思っていたのだ。
あたいが住んでいた地域にも地主の家の子などはいたけれど、ドラマやマンガに現れるような極端なお金持ちでもなく、比較的裕福というだけであった。また、少子化の波に煽られた過疎の進む地方ではそこまでの格差を感じることはなかった。貧しくてもお菓子やゲームはたくさん買い与えられ、家の中には物が溢れているって家庭もあった。裕福だけどゲームを買ってもらえずに、中学から隣町の私立中学に行ってしまう子もいた。裕福さを顕示する指標が、地方の町には乏しかったのだ。
だからきっと、それぞれが自身の家を中流程度ーー普通の家だと思っていただろう。あたい達子どもの世界は、古びた馬鹿でかい一軒家と、ニュータウン化で建った建売住宅と、団地とアパートしかなく、もう廃校になってしまった母校も含めて、そこだけが社会だった。その町にあるだけの常識や普通を疑うことなく生きていた。
大人になった今では、もうあの地域のさまざまな不便さ、マイノリティの居心地の悪さを感じ取れるようにはなったし、そしてあの頃の生活の劣悪さは自覚できるようになった。たとえば子どもの時のように、お米に水道水をかけて無邪気に食べることももう無い。パン屋さんの廃棄のパン耳をおやつにして過ごしたりもしない。
あたいはあの街のあの頃に感じていた普通が普通で無いと知った。そして、またあの時のようにあたいが食うに困ったら、それが当たり前の生活だと感じられるような子どもの頃の視野は失ってしまっているので、きっとひもじさに苦しみを覚えながら腹を空かせるようになる。
そういう風に、人はさまざまな環境や世界を経て、少しづつ価値観を涵養し、中には不可逆の視点を得ていくこともあるのだと思う。それこそよく言われるのは「生活水準を下げるのは難しい」という言説で、あれこそまさに人が身につけた価値観や生活水準によっては《今までの当たり前が瓦解して、普通であったことからですら苦痛を感じ取れるようになってしまう》ということを言い表していると思う。
普通とは、実は《他のものを知らない・知る機会がない・知ろうと思わない》という状態であるのかもしれない。
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さてここからタイトルの発言を聞くにいたった出来事を描く。
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天然温泉旅館「もちぎの湯」
ここはあなたの宿であり、別荘であり、療養地。 あたいが毎月4本以上の文章を温泉のようにドバドバと湧かせて、かけながす。 内容はさまざまな思…
今ならあたいの投げキッス付きよ👄