「バカの方が賢い」ーーというヤンキー的“無知の知“に浸ってたあたいの備忘録
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あたいの地元はヤンキー的な人も多い地方で、校区の寄り合いの場では警察も黙認(というかほぼ公認)で子どもにお酒とタバコが許されていた。そもそも飲酒とタバコは可愛い遊び。「人殺し以外はヤンチャの範疇だべ?」が不文律の文化圏。
夜になると、舗装が剥がれてきたガタガタの道路を、マフラーからけたたましい音をかき鳴らす原付や、太鼓のような響きを轟かせるウーファーを積んだ車が必ず一度は往来する。その度に田んぼのカエルの合唱が一旦静かになって、少しするとまた鳴き声を上げ始める。
悪いことをしてる年上の人間は、大体が友達のお兄ちゃんだったり同じ学校の先輩だったりした。まぁ校区が狭く、通う学校が限られているので当たり前のことだけど、街でヤンチャしてる子は大体年下のあたい達にも何らかの接点と関わりがあったのだった。そしていわゆるマイルドヤンキーってやつで地元を出ない子も多かった。なのでそういうコミュニティを覗いてみると、いつまでも年上の人に対して「〇〇くん」「△△先輩」と呼んで慕う感じのゆるい上限関係と閉塞感があった。
年上は死なない限りずっと年上なので、先輩はずっと偉い地域なのだ。
だからか、ヤンチャの人たちの中にも先輩のメンツやしきたりという監視的な上下関係や、治安維持のような相互作用が働いていていたのか、わりあい地元の人間なら比較的安全に過ごせる地域ではあった。良くない悪さをすれば先輩からシメられるのだ。
あたいもガキンチョの頃から夜になっても家に帰らず出歩いたりしていたけど、不良から絡まれたり、カツアゲされたり、目をつけられたりしたことはない。
けれど夜になるといつも彼らは原付に乗って公園でたむろしてるので、子どもながらに「ヤンキーや」と思っていた。
もちろんクラスにもヤンキーの弟や妹はいた。あたいが通う学校は、ひと学年2クラスに満たない生徒数しかいないので同学年はみんな友達みたいなものだった。どこの家の子か大体周知されていた。家族構成も、兄弟がグレててヤバいかどうかも。
同い年ながらにすでにヤンキー的な血気盛んさの持ち主な子が多かったせいか、うちの学校ではよく先生から「お前ら、指の臭い確認するぞ〜」って笑って釘を刺されることがあった。衣服についたタバコの匂いは親や家庭の物だと誤魔化せるけど、指からヤニの匂いがしたら吸ってることがバレる、と友達の山本くんが言っていた。そういう常識を知ったのはあたいが小3か小4の頃だったと思う。
あたいは身近にいる唯一の大人である母ちゃんがタバコを吸わない家で育ったし、その地元生まれでもないので親しい先輩もいなかった。タバコを吸う機会が無かったので喫煙する習慣に迎合しなかった。中学の時の同じクラスの友達が「吸わないに越した方がいい。タバコなんて体悪くするだけ」とか言って、タバコを吸うたびにあたいから離れて吸ってくれていたのを覚えている。
ただ、あたいは不良では無かったけど、良い生徒では無かった。放課後も帰らずに一緒にだべったりつるんだりする奴は大体ヤンキーかネグレクト家庭の子どもだった。あたいも毒親的母子家庭だった。誰も「家に帰りたくない」とは言わないけれど、暗黙の共通観念があった。家が嫌だったのだ。ただそれだけで、それぞれ系統違いの生徒が校庭や裏山でだけは年相応のただの子どもになって時間を潰せた。
ヤンキーと一般生徒の垣根も曖昧で、いじめや派閥こそなかった(今は廃校になったくらい当時から学生数が少なかったせいもある)けれど、卒業式には学校の窓ガラスが記念に割られるような学風で、男子は昼休みに上学年の先輩から肩パンされるという男らしさの慣習はあった。大昔は全員根性焼きだったらしいので、肩パンになったのはかなり落ち着いた方だと友人の兄は語った。
学級崩壊するほど荒れた環境では無かったものの、そういうヤンキー的な地方の悪さを煮詰めた場所だったので、まぁ勉学について豊かに学べる土壌は無かった。
だから教育や勉強という面では教師陣も諦めていた節もあったと思う。
たとえば、作られていたテストは、頑張って100点を目指すものじゃなく、0点を取らないものだった。自信を損ない学校に嫌気を差す子供を作らないための“接待的な“テストと言っていい。簡単とかそういう問題じゃなく、そもそも問題でも無いようなものだった。中学3年生までそういう傾向の試験しか出てこなかった。
そりゃバカなあたいでも学年上位の成績を取って「自分は賢いんだ」と思い上がったりできる。おかげさまであたいは高校に入るまで自分が優秀だと勘違いしていた。ただその自信だけがあたいの気骨でもあったから、幼少期から思春期にかけての自信獲得の経験は、間接的に母ちゃんと対立して生き延びることに寄与していたのかもしれないけれど。
でも今思うとそんな簡易で安易なテストでも優劣がついて、あたいなんかが学年上位になれたということは、そのテストも簡単にはできないという認知能力の子がいたということだ。そのことを先生達は気づいていたはずなので、公立小中校の教師というのはよっぽど子ども達に目を配らせる必要があって、その子どもの傷つきやすい繊細な肯定感をどうにかしようと画策していたのだろうなと想像もできる。
とにかく、義務教育期間内の学校での勉強は一生浸かっていたいほどぬるくて温かかった。そしてそこには「学校に来るのは集団生活をするためであり、“本当の勉強“をして知識をつけて賢い学校に行きたいという子は塾に行ってください」ーーというような空気があった。
確かに教育機関としては、協調性を含む社会性もその教育の範疇なので、板書やテストだけが学校で教えるものじゃない、という言い分は分かるけれど、少なくともあの学校が担っているのは義務教育の形だけで、ほとんどが養育の受け皿だった。教科書を全て授業で使い切るようなことは一度も無かったし、言葉が悪いけれど中卒になるまで子ども達を預かるだけの箱だった。
何らかの力を涵養するよりは、ただそこにいるだけでいいと寛容するような、低いハードルがあったように思う。
けれど、そういう居場所こそ本当は子どもに必要なのかもしれない、と現在のあたいは思う。
当時のあたいは一人で教科書を最後まで読み切って「こんなにも教科書や副読本は面白いのに、買わせるだけで授業で使い切らない学校は愚かだ」なんて偉そうに非難していたけれど、そもそも受験せずに入られる学校で、本来は篩にかける過程なんて必要ないんだよね。
家にいると死にたくなるから学校に来たりする子もいるし、その学校すら面白くなくなれば嫌でも外に出歩くしかない子もいるのだから。義務教育の学校なんて、タバコを吸わずに50分椅子に座ってるだけで褒めてもいいくらいのことなのかもしれない。
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天然温泉旅館「もちぎの湯」
ここはあなたの宿であり、別荘であり、療養地。 あたいが毎月4本以上の文章を温泉のようにドバドバと湧かせて、かけながす。 内容はさまざまな思…
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