「女は怒っていい」←大体すでにもう怒ってる。
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「あくまで自分はフェミニストじゃないけど」という枕詞をつけながら、身近に起きた女性差別のケースやニュースを取り上げ、そして「さすがに女はこれに怒っていい」、あるいは「フェミニストはこういうことに怒るべきだ」と結論づける人はちょくちょくいる。
つまり、自分もそれが女性差別問題だとは思うけれど、それに対して怒るのは女の役目で、なおかつ女たちのその怒りはまだ“比較的“正当である(ヒステリーではない)と評価し、そして、被差別者が声を上げることに対して、なぜか自分は許しを与える立場にあると考えている人だ。
言い過ぎやろか。その人は曲がりなりにも反差別について声を上げた人なのに曲解し過ぎやろか。でも結果、そういう立場を取っていることになっていると思う。無意識だろうと、その言葉の選び方ならば。
たしかに、一見すると、取り沙汰された事柄に対して「これは女性差別ではない」って擁護もしてないし、「女なんて差別してもいいんだよ」と開きなおって加担してもいないから、純然たる“女の味方“に見えるかもしれない。
というか、フェミニストや女性全般に対して過敏になって、とりわけ悪い心証を持っている人から見れば、この発言者は女性差別に気がついて目覚めた“フェミニスト側”にも見えることだと思う。
だけど、発言した本人は「自分はフェミニストではない」と否定して、アンチフェミニズムを掲げる人との対立は選ばない。
その背景はこうかもしれないーー「自分はフェミニストのような過激な破壊者なんかじゃないけれど、ちゃんとした良識と良心を持つ人間だから、この件について無視せずに差別だとして触れたのだ」ーーそういったある種の普遍的な正義感と、それがもっともな善行であることを信じているかもしれない。
そこにはこういった意識もある。つまり、フェミニストは基本的に愚かで、アンチフェミニズムの気持ちもわかるけど、でもこの件に関しては明らかに女性差別で、自分はキーキー怒るつもりはないけど、良識と良心はあるので指摘した。自分こそ冷静で賢明な指摘者だ。差別について触れない方が正解の“事なかれ主義“の国で、あえてわざわざ取り上げてあげたのだから自分が女側から批判される謂れはない、と。
でも、冒頭にも指摘したように、「女は怒っていい」という啓蒙やご高説は、結局は女に丸投げで、「フェミニストじゃないけど」という枕詞で始まるのは救うべき女とそうでない女がいると信じているからで、そして怒りへの連帯という発想が無いのは、女性差別について自分も関わって解決すべき問題だという当事者感が薄いからなのだと思う。
だからそれを女には見抜かれて「何様だよ」「どこから目線だよ」と鼻白まれ、そして発言者が「女性差別について触れてあげたのに女側からハシゴを外された。これだから女は、これだからフェミは」と立場を一転、女性嫌悪を深める事態に至ることも多々見受けられた。
これを防ぐために、フェミニストや女側は、反女性差別の萌芽に対して「怒ってくれてありがとう」「女の味方になってくれて感謝します」と歓迎すべきだ、という指摘も見られる。だけどあたいは、そうやっておだてて媚び諂って得た味方は、結局女の横には立たず、上の立場にいるようだと思う。
そもそも「一緒に怒ってくれてありがとう」ってなんなんやろね。他人からの感謝が無いと持続できない怒りって、感謝が途絶えた途端にその人間に対して「感謝が無い!」つって矛先が向きそうで怖くない?
それに、それって本当に問題の本質に対する怒りなんやろか。
各々が孤独でも怒りを覚える感情、それが差別への怒りや危機感なんちゃうやろか。
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