「打ち上げ花火、 下からみるか?横からみるか?」映画読解レビュー

こんにちは。映画を読解するのが好きなひとです。

パッと見てよくわかんない映画を、いろいろとこねくり回して
それっぽくして納得するのが好きだ。

今日は知り合いが「打ち上げ花火、下から見るか?横からみるか?」を見たが
謎が多かったので、あなたはどう思うか教えてとの依頼を受け、
先ほど見終わったのでつらつらと書いていく。

なお、当然ネタバレ前提である。
だって内容を読解するんだもん。

僕自身は「へえ〜、あなたはこの映画をこう解釈したのね。それを踏まえて僕はどう思うかな〜〜」とか考えるので、
ネタバレ解説を見てから映画を観にいく、というのはよくあるが
そういうのが嫌な人はこれ以降の文章を見ないことをお勧めしておく。
映画を観てからまたきて。
いや、もう来ないと思う。という人はちょっと無理してでも読んで。

では、良いだろうか。

ネタバレが嫌な人はほんとにここまでね。

目次見ただけでもネタバレ風味あるからね。


よし、始めていく。


映画のあらすじ

あらすじはwikipediaから引きます。

小学生の典道と祐介は仲の良い友達で、2人とも同級生のなずなの事が好きだった。しかしなずなの両親が離婚し、彼女が母親に引き取られて2学期から転校することになっているとは、2人には知るよしもなかった。親に反発したなずなは、プールで競争する典道と祐介を見て、勝った方と駆け落ちしようとひそかに賭けをする。勝ったのは祐介か?典道か?
この物語は勝負の結果が2つ存在し、その時点から物語がAパートとBパートの2つに分かれ、展開する。
Aパート
順調に泳ぐ典道だったが、プールのヘリに足をぶつけたことが原因で負けてしまう。勝った祐介はなずなに「花火大会に二人で行こう」と誘われるも、祐介は男友達の考えた「打ち上げ花火は横から見たら丸いのか?平べったいのか?」を優先し、なずなとの約束を破ってしまう。それを知らないなずなは彼の実家の病院で散々待たされ、足の治療に来た典道になずなが「君を誘ったらどうしてた?」と聞くと典道は「俺は裏切らない」と返すが、なずなはすさんだ表情の母親になすすべなく連れ戻されてしまう。怒った典道は祐介を殴り倒すと、「あの時俺が勝っていれば」と後悔する。
Bパート
足をぶつけることなく勝った典道はなずなに「花火大会に二人で行こう」と誘われ、男友達にも「打ち上げ花火は横から見たら丸いのか?平べったいのか?」と誘われるも、なずなとの約束を優先し、バスに乗り駅で降りた。なずなは時間が経つにつれ態度を変え駆け落ちせずバスで戻り、学校のプールに忍び込み水遊びをした後、「2学期で会おう」と叶うことのない約束をして典道の元を去っていく。一方祐介達は灯台に向かうも花火はすでに終わってしまった。典道は祭りで彼氏を連れた三浦先生から花火師を紹介してもらい、一発の花火を打ちあげてもらう。典道は下から、祐介達は横から花火を見ることができた。(引用:wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/打ち上げ花火、下から見るか%3F_横から見るか%3F#あらすじ)

はい、とのことでした。

謎①「その球はなんですか?」

通称「もしも球」
「もしも〜〜だったら!」と願って投げるとそうなる。すごい。
今作は割とファンタジーの世界であり、
ファンタジー世界特有のファンタジーアイテムでは?
と思っている人もたくさんいると感じるが、
僕はこの「もしも球」は明確にある行為を指していると思う。

まず最初にその可能性に思い至ったのは、
なずなのお父さんがいなくなってしまったと、なずなが語るシーンである。

お父さんが水に浮いて倒れている映像が一瞬入るが、
その手にはなにやらキラキラした球体が握られている。

これが今作ではなかったら、
ああ〜〜、なにやらキラキラした球体を持ったまま亡くなってしまったんだな〜〜〜
となって終わるが、残念ながらこの物語は「謎のガラスの球体」が活躍するのだ。

では何故、水に浮いて倒れているお父さんが「もしも球」を持っているのか?

「もしも球」が「なんでも願いを叶えてくれる魔法の球」だとすると、お父さんは何故それを使わなかったのか?

いや、おそらく、お父さんはその球を使ったのだ。
使ったから手に握っている。
その方が自然だろ?

正回転と逆回転

ところで、今作には「回転」の映像が非常に多い。
学校の螺旋階段や風力発電の風車などだ。
(ほかにもスプリンクラーとかもそうだ)

「回転」は基本的には「繰り返し」の象徴であるが、
その回転の方向が変わった場合、意味合いが異なっていく。

今回特に象徴的だったのは螺旋階段の回転方向である。
映画開始後(Netflixでの話である)7〜8分くらいのときの回転は時計回り
34分〜35分のときの回転は反時計回りになっている。そして最後の学校のシーンは時計回りに戻る。

つまり
「時計回り→反時計回り→時計回り」と
反時計回りが挟まれていることがわかる。

では、この逆回転の意味合いはなんだろう?
「巻き戻し」というのも今作にはあるだろうが、
それはわかりやすいミスリードだと感じた。

おそらく

この逆回転は「逆さごと」である。


逆さごと

葬儀の納棺の際、故人に着せる着物は通常とは反対向きに着せる。これを「逆さ着物」という。

手のひらではなく、手の甲同士で拍手をすることを「裏拍手」という。この裏拍手は死人がする拍手と呼ばれ、生きているものがやることは禁忌として今でも忌み嫌われている。

他にも、死者が踊るという「スリラー」において、
マイケルジャクソンはムーンウォークをし、反対向きに歩く

これらを総称し、「逆さごと」という。
逆さごとは生者と死者を区分する儀礼である。

では、突如挟まれた螺旋階段の反時計回りが逆さごとだとしたら、
挟まれたのはいつか

そう、典道が最初にもしも球を使ったそのすぐあと、
螺旋階段は反対向きになった。


花火のルーツ

花火大会はいつやるのだろうか?

夏にやる。まあその通りだが、こうも言える。

花火大会はお盆に合わせて行なっている。

日本最古の花火大会である隅田川の花火大会がある。
この花火大会の前身は江戸時代の川開きといわれている。
時代は大飢饉。将軍・徳川吉宗は飢饉にて亡くなったものへの慰霊として
花火を打ち上げさせた。

つまり、花火の最初のルーツは死者の供養なのだ。

そう考えてみると、今作での花火は、
まるで盆提灯の模様のようではないか。

僕の結論を言おう。

「もしも球」は「身投げ」を指している。

お父さんは「もしも球」を使用し、「身投げ」をして死亡した。

典道となずなは、「もしも球」を使用し、「身投げ」をして死亡した。

彼らが死んで以降、その世界は「死後の世界」へと反転し、
螺旋階段は逆回転となった。
そして彼らが二人で見る花火は、死者の供養である精霊火なのだ。


身投げの暗示

ちなみに、実を言うと、「身投げ」の暗示は極端に多い。

「心中」という言葉をなずなに言わせているし
ラストシーンも二人で水に入っていく。
そしてセリフは「次はどんな世界かな」なのだ。

そもそも、お忘れなきよう、

この映画は「二人で水に沈んでいく」ところから始まっている

では、何故二人は身投げをしたのか?


自己と世界のどちらを否定するか?

なにか自分の思っていたものとは違うことがあったとき、
我々の取れる態度は大きく2つ。

自分が間違っている or   世界が間違っている

自分を否定するか、世界を否定するか、である。

通常、自分の判断・認知を修正することになる。

だから、「花火を横から見にいく必要がある」のだ。

自分は花火を横から見たら丸く見えると信じていても
世界の方がその正しさは優先される。
世界が示した「正しい花火の横向きの姿」を見ることで、
自身の認知を修正、もしくは強化する。

ただし、否定の仕方はもうひとつある。

自身の認知は間違っておらず、間違っているのは世界である

こう判断したとき、世界側に修正を求めるが、
世界の修正は個人の力の及ぶ範囲ではない。

で、あるならば、
「この世界を修正する」のではなく
「修正されている別の世界に行く」のが最適解となる。

間違った現世を修正できないのであれば、
生まれ変わって別の世界に行く。のである。

なお、主人公の典道は「横から見た平らな花火」に向かって

こんな世界はおかしい

と叫び、

もしも球によって世界の移動を行う

戻らない典道

最後の学校のシーン
(螺旋階段は正回転に戻り、ここは生者の世界である)

典道はいない。

いるわけないのだ。彼は既に現世に別れを告げ、別の世界へ移動した。





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