「人を育てる」という祈りにも似た行為について
今日は子どもたちが育てている夏野菜について書こうかな、
それとも先日ニュースを騒がせた(?)
「底辺の仕事ランキング」について書こうかな、
と頭を悩ませていました。
お昼前に衝撃の速報が流れてくるまでは。
本日、日本の元首相が選挙の遊説中に襲撃され
亡くなるという事件が起こりました。
第一報を受けてからなんだかずっと心が落ち着かず、
夕方訃報に接してからはなんだか言葉にできない心持ちで、
今日はもう書けないかも…。
そう思いましたが、
自分の心を落ち着けるためにも
このモヤモヤした気持ちを書いてみようと思います。
暴力では何ひとつ解決しない。
誰もがそう言うにもかかわらず、
この世の中は暴力で溢れています。
殺人に、テロや紛争。
自らの主張を押し通し、
欲望をかなえるための残酷な暴力の数々。
暴力は、一見おてがるのように思えます。
恐怖によってあまり時間も手間もかけることなく
相手を自分の思い通りにすることができるからです。
戦争や殺人というと実感がわかないかもしれませんが、
より身近なところでいうと
「しつけ」と称した子どもへの体罰や暴言でしょうか。
虐待とまではいかなくても、
子どもに言うことをきかせるために
どなったり、叩いたり、殴ったり、という手段を、
私たちはとってしまいがちです。
どなられるのも殴られるのも、
こわいことです。
その恐怖感から、子どもたちは大人の思い通りに動くことでしょう。
ただし、短期的にのみ。
結局のところ、
恐怖は根本的な課題の解決を助けません。
即物的な対処反応に過ぎないので、
じっくり課題に向き合って
自分で考えて取り組んでいくという姿勢が育まれないのです。
また、恐怖を覚えるような暴力によって
自尊心や自己肯定感は著しく傷つきます。
自分を肯定できない人間が、
他者と健全な関係を築くことはとても難しいことです。
そして、暴力は新たな暴力を生みます。
暴力によって支配されてきた子どもは、
自分が他者と向き合う手段として
暴力を選択しがちになるのです。
不幸な暴力の連鎖です。
子どもをしっかりとした人間に教育するためには
厳しいしつけが必要だという声を耳にしますが、
暴力は決してすこやかな成長をもたらすことはないのです。
どんなに時間がかかっても、
どんなに手がかかっても、
何度もくりかえしやって見せ、言葉で伝えてあげる。
できないという事実も受けとめてあげながら、
できるようになるまで信じて待ってあげる。
お互いの思いを言葉でやり取りしながら、
問題の解決をさぐっていく姿を見せてあげる。
そうした時間も手間もかかる丁寧なかかわりでもって
子どもたちを育てていくことが、
すこしでも「暴力」のない世界に繋がっていくのではないでしょうか。
安易に「暴力」という選択をしない人間、
いろんな困難や葛藤はあれど
「対話」をもって問題の解決をはかろうと
努力できる人間が増えること。
気が遠くなるような遠回りに思えても、
それがこの世から悲劇的な「暴力」を無くす
一番堅実で確かな近道のはずだと、
祈るような気持ちで信じています。
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