【ものがたり】Normal
若い頃は、絵と珈琲と煙草さえあれば生きていけると思っていた。小さなスケッチブックと鉛筆を持って町中を歩きまわり、気に入った風景を見つけるとラフスケッチを描き、家に帰ってからそれを元にイメージを脳みそから引っぱりだして仕上げる。
その引っぱりだすときのお供というかカンフル剤が、珈琲と煙草だった。
不思議と空腹を感じず、むしろ感覚が研ぎ澄まされるようで心地よかった。
もちろん、普通に飯を食わなければ死ぬ。
実際に一度貧血でぶっ倒れて病院に担ぎ込まれ、親父が大学から呼び出された。
お前のやることはいつも極端だ。なんで、ふつうにできない。
会社から直行してきた親父がほとほとあきれ果てたように言った。
俺は笑う。これが、俺のふつうだ。
だが、親父には一生分からないだろう。
大学を卒業すると、俺は家から遠く離れたところにある小さなWeb制作会社に就職し、晴れてひとり暮らしをすることになった。家を出れば"俺のふつう"でいられると思ったのだ。
だが、少し考えが甘かったようで、会社というところは想像以上に奇妙な"ふつう"で凝り固まっていたのだ。
俺が俺でいられない。
絵も珈琲も煙草も俺を俺でいさせてくれず、次第に自分が何者なのか分からなくなっていった。
そんなときに涼音と出会った。
涼音は、俺と同じ“臭い”がした。
人の輪のなかには決して入ろうとしないくせに誰よりも人の感情に敏感で、遠くから人々を冷徹に観察しながらも顔には愛想笑いを浮かべているような、奇妙な人との距離感がある。ひそかな親近感を抱きつつ彼女を見ていると、ある日会社で倒れた。直属の上司という立場上、俺が病院へと付き添うことになり、医者からいろいろ説明を受けたが、つまりは極度の疲労、そして軽い栄養失調らしい。そんなところまで、昔の俺に似ているのかと内心苦笑いしたが、最近の若い女性にそういうのが増えているらしい。
だが、鈴音は、"そういうの"じゃあなかった。目を覚ました彼女は……俺"を見つけた。
鈴音は、自分は龍や精霊といった超自然的な存在が視えるのだという。そして、俺のなかにある"歪み"に気づいていたのだ。
「ずっと、視えるのに視えないフリをしてたの」
彼女は言った。「でも、あなたの"歪み"を見ててすごく苦しくて、ああ、自分を歪めると周りも歪めるんだなあって思った」
いつの間にか、俺は泣いていた。そうか、俺は自分自身を歪めていたのか。
それが腑に落ちると、俺は自分が"俺のふつう"でいようと思いながらどこかでそれを恐れていたことにも気づき、その恐れにも気づくことなく、俺は俺を視ないフリをしようとしていたのか。
それから、俺たちは自然と一緒に暮らすようになった。一緒にいると、お互いが自分自身でいられた。
そんな同棲生活をするようになって数年経った頃、伯母から親父がガンになり、もう長いことないという連絡を受けた。どうやら少し前から入院生活となったのだが、親父が俺に連絡をするのを止めていたらしい。母さんは俺が中学生の頃に死んでいたので、姉である伯母がずっと面倒をみてくれていたのだ。
「でも、もうさすがに……お医者さんも、そろそろだっておっしゃってね……」
俺はかなり動揺した。親父とは約20年会っていなかった。それでも親父に会う気にはなれなかった。
そんな俺を見て涼音が、これが最後の難関だと思う、とぽつりと言った。
「あなたが、本当のあなたになるためのね」
涼音とともに病院を訪れると、親父は個室をあてがわれており、ベッドに横たわる姿は叫び出したくなるくらいに小さく、死に向かう静謐さに満ちていた。
親父は俺の顔を見ると、来たのか、とまぶそうに目を細めていった。
俺は黙ってうなずくと涼音を紹介し、
「一生、この人と一緒に生きていこうと思う」
さすがに親父は驚いた顔をした。しばらく沈黙したあと、相変わらずお前はやることが極端だな、とため息交じりで言う。
「私は、そんなお前がずっとうらやましかったんだと思うよ……」
「……え?」
親父はまっすぐに俺を見て、しあわせそうに笑った。
「お前が進もうとしている道はつらいことの方が多いかも知れないが、お前なら、きっと新たな道を切り拓いていけるんだろうな……」
ゆっくりとしゃべる親父の言葉がじんわりと身にしみこんでいくにつれ、俺はその場に座り込みそうになった。思わずベッドの柵を握りしめる。とめどなく涙があふれた。
「幸せになりなさい、響子」
親父がこの世を去ったのは、それから一週間後のことだった。
(了)
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