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【ものがたり】桃のショートケーキ

 桃の節句が近づくと、子どもの頃を思い出す。
 私の誕生日はちょうど3月3日。桃の節句である。大人になった今では、節句の由来も桃の意味も知っているが、子どもの頃の認識はひな祭りの日で「女の子の日」だった。男の自分が女の子の日に生まれたなんて、とてもはずかしくて学校のクラスメイトには絶対に言えなかった。幸いにも、「お誕生会」を開こうという友人もおらず、また、女子たちが良くやるような誕生日プレゼントを贈り合う習慣も男子にはなかったので、私の秘密が知られることはしばらくなかった。
 とはいえ、誕生日は誕生日。プレゼントをもらったりごちそうを食べたりと、自分だけを特別に祝ってもらいたいというのが子ども心である。しかし、私には妹がいた。4つ違いで、私がそこそこ物ごころ付き始めた頃に突然現れたこのひ弱な生き物ー結生(ゆい)は、いつも私の邪魔ばかりした。
身体の不調によって母を独り占めするのはしょっちゅうで、学校の遠足のときの私のお弁当が、コンビニのおにぎりとお総菜という時もあった。夏休みに友だちと釣りに行く約束をしていた日の前日に結生に釣り竿を壊されたこともあった。その日は仕方なく友だちから竿を借りたが、手になじまなかったせいか1匹も釣れなかった。私が宿題をしてると何かで手を切って大泣きしながらやってきてノートを血だらけにしたり、冬休みの日課とされた縄跳びをしてると自分もやりたいと言って縄を横取りしようとしたり、どこかからかひろってきた子猫をこっそり飼おうとして私のおやつをそいつにあげたり・・・。結生から受けた被害を母に抗議しても、たいてい返ってくるのは「お兄ちゃんなんだから面倒見てあげなさい」のひと言である。
 結生はとにかく、自分が家族の中で一番小さく守るべき存在であることを最大限に利用しようとしているとしか、私には思えなかった。
 日常ですらそんな風なのだから、「女の子の日」たる3月3日は当然の如く、結生が最重要人物ーVIPである。

 雛飾りは男雛と女雛のみの親王飾りというものだったが、人形の衣装や調度品などがきらびやかで細部にまで繊細な配慮が行き届いた逸品であることは、子どもの目からも感じられた。それにくらべ、私に与えられた節句の調度品と言ったら兜の置物だけで、友だちの家の庭にひるがえる鯉のぼりが、小ぶりながらもうらやましかった。
 両親は共働きだったため完全な手作りではなかったものの、ひな祭りの日の夕食のメニューはいつも彩り鮮やかなちらし寿司が定番だった。そのほかに私の好きな鶏の唐揚げやはんぺんのバター焼きなども並んだが、ケーキはひな祭り用のもので、男雛と女雛のマジパンがそれぞれ乗った一対の小さなものである。女雛ケーキを結生が、男雛は私が、小さいとは言えホールで食べられたのはうれしかったが、誕生日用のケーキでないことに、正直かなり不満だった。
 そんな切ない誕生日はしばらく続き、私が小学生最後の誕生日を迎える1週間前、事件は起こった。
 一体どこからもれたのか、クラスメイトに私の誕生日が「女の子の日」であることがばれてしまったのだ。
 今から思えば本当にささいなことだし、クラスメイトからしても、退屈しのぎのちょっとした「小ネタ」ていどでしかなかったのだろうが、まもなくやってくる気の重い「誕生日」に少し憂鬱な気分になっていた当時の私にはそのことでからかわれるのが耐えられなかった。
 最初は気にしてない風な態度をとっていたが、あまりのしつこさに(そして相手もむきになってきたのか)しだいに小突きあいをするようになり、やがては突き飛ばしたり蹴飛ばされたりと取っ組み合いのケンカになった。幸いにもクラスメイトに柔道の教室に通う大人並みの体格の男子がいて、彼が冷静に私とケンカ相手とを引き離してくれたお陰で先生が呼ばれることなくすんだ。 
 私はその時たぶんすこし涙ぐんでいたと思う。
 好きで「女の子の日」に生まれたわけじゃない。
 むしろ私は被害者だ。
 それでも、結生がいなければ誕生日を普通の誕生日として祝ってもらえただろう。せめて弟でさえあれば、ひな祭りが祝われることなく、鯉のぼりも買ってもらえたかも知れない。
 結生さえいなければ。
 昏い気持ちが、良く噛まずに飲み込んだ肉の塊のように胸につかえて、身体までもが重く感じられた。
 そして迎えた誕生日。
 華やかな雛飾りとちらし寿司とひな祭りケーキ。
 食卓を整える母を尻目に、結生はこたつに入ってテレビアニメを見ている。この世のすべての祝福が与えられることを信じて疑わないような顔で。
 結生さえいなければ。
 私は食卓につくことなく、黙って自分の部屋に戻った。
 母が何度か呼びに来たが、食べたくないと言い続け、最後は無視した。
 いつも父は仕事で遅く、この日も例外ではなかったから、豪華なごちそうが並ぶ食卓を囲むのは母と結生の2人だけとなったはずだ。
 その日から、私は結生をできる限り避けるようになった。
 初めは、私が向ける感情を理解できずにしつこくまとわりついてきた結生も、次第に途方に暮れたような顔で私を見るようになり、ときどき、おびえた目で顔色をうかがうこともあった。
 そして私が中学校に上がって陸上部に入ると、結生との生活時間帯がずれて意識をせずとも顔をあわせることも少なくなり、食事も1人で摂ることが増えた。
部活と勉強、そして時々の友だちとの交流。私の毎日は気が遠くなるほど忙しかった。
 いや。
 正確に言えば、忙しくして結生に対する昏い気持ちから目をそらそうとしていたのかもしれない。
 そして、父と母の関係がどうしようもなく冷え切っていたことにも、私は気付いていなかった。
 やがてあの「事件」から1年が経ち、再び「ひな祭り」の季節が巡ってきた。
 雛飾りと食事のメニューは相変わらずだったが、この年は、大きな丸いケーキが食卓の中央に据えられていた。
 缶詰の桜桃らしきものと「お誕生日おめでとう」と書かれたチョコのプレートが乗っており、生クリームが不格好にデコレーションされている。綺麗に盛りつけられた母の料理と比較すると、その不格好さは生々しい存在感を放っていた。
 私は思わず「何これ」と言った。すでに食卓についていた結生の顔がこわばった。
「桃のケーキ」
 そういって笑った母の顔が、なんだか泣き出しそうに見えたことを覚えている。「結生が作ったの」
 その時のケーキの味は、覚えていない。
 やはり泣き出しそうな顔で黙って食事をしていた結生の丸い頬と、ケーキを口に含んでゆっくり目を閉じた母の幸せそうな唇と、父はこのケーキをどんな顔で食べるのだろうかと、ふと考えたことだけが、記憶に残っている。
 それから、毎年結生は私の誕生日に桃のケーキを焼いた。
 お菓子作りにも興味がわいたらしく、クッキーやマフィン、プリンやパイなど時季に合わせたいろいろなお菓子を作って皆にふるまったが、ホールのデコレーションケーキがお目見えするのは私の誕生日だけだったように思う。しかも、決まって桃のケーキだ。
 やがて、私が社会人となった年に父と母が離婚。高校を卒業した結生は家を出て東京にある菓子製造の専門学校へと進学した。アルバイト代と奨学金とを合わせたお金で短期留学もするなど、私にまとわりついてぎゃんぎゃん泣いていた小さな結生はもうどこにもいない。
 それでも、私の誕生日になると毎年必ず家に帰ってきて桃のケーキを焼いてくれた。
 経験を積み、小さいながらも賞までもらえるほどの実力とセンスを身につけているにもかかわらず、その日に作るケーキはいたってシンプルで、初めて焼いたものとデコレーションは変わらない。
 たっぷりの生クリームをまとわせ、桃のコンポートとチョコのプレートがのっただけのショートケーキ。シンプルゆえに、一層美しさが際立っていた。
 昔とは当然比べものにならないほど端正なたたずまいのそれを、母と一緒に3人でゆっくり食べる。
 桃のケーキは、おそらく彼女にとって家族の絆を象徴するものなのだ。
 父と母がまだ夫婦であり、自分がいて兄の私がいて、記念日には食卓で定番メニューを一緒に囲んだあの頃。
 ケーキを作ることで、彼女はあの頃の平和な食卓をいつでも再現できるのだ。
 今年もまた、桃の節句が近づく。
 彼女の魔法が始まる。

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