学校とは
皆さんこんにちは
mote_surfです。
私はいわゆるサラリーマン一般ピーポーですが、最近興味を持って教育に関わっています。
今日は、そもそも学校とはなんぞや?という問いを、言葉の側面から調べてみたので、少し書いてみたいと思います。
何の疑問も無く40年以上も使ってきた「学校」という言葉。「教師」や「生徒」という言葉。
学校とは、どんな成り立ちで生まれた場所なのでしょうか。
学校という文字
【学校】→「学ぶ」➕「校」
「学ぶ」に関しては、何となく分かりますが、「校」とは一体何でしょうか?
校正とか、校舎とか、使われていますが、イメージつきません。
「校」の成り立ち
「木」➕「交」
木が交わっている状態を意味している事は何となくわかりますが調べてみると、成り立ちは少し怖い意味でした。
「交」という文字は、人が足をバツの形に組んでいる様子を表しているのだそうです。
つまり「校」は「木」を使って足を組ませる道具、組まされた足に木製の刑具(足かせ)が付けられた形ということです。
そこから意味が派生し、家の庭や区画などを「仕切る」や「囲う」「限る」などの意味を経て、現代の「校」という意味になっていったようです。
では「学校」構成している人、つまり生徒と教師について、そもそも「生徒」と「教師」とはなんぞや?を調べてみました。
生徒という文字
「生」➕「従」
何となく、生きている人が従っている状態なのかなと想像できます。
「従」の成り立ち
従の語源は人が2人並んで歩いてる状態を表したものだそうです。行にんべんには道の意味があり、その道をどちらかの人が後からついていく様が派生して、歩兵や弟子といった変遷を経て、現在の「従う」といった意味になったようです。
つまり「生徒」とは、元々は戦争の兵隊的な意味が含まれ、現代においても立場としては受動的な立場でいる状態を表現している言葉といっても良いでしょう。
教師という文字
「教」➕「師」
教える師匠といったイメージですが、果たしてどういった成り立ちがあるのでしょうか。ちょっと怖くなってきました。。
「教」の成り立ち
教の左部は子供に教えるといった意味があり、右部はムチの意味があるようです。古代中国ではムチを使って子供に教えていたようなことから、この文字ができたとの事でした。
なるほどなるほど。
何の疑問も持たずに「学校」という言葉を使っていましたが、調べてみると学校の印象が少し変わりました。
ここから察するに「学校」は、ムチや足かせを使いながら強制的に、戦争へ向かう兵隊を育てる場所としての成り立ちが見えてきました。
塾、学舎、学生、先生という言葉
塾の成り立ち
土台の上に先祖を祭った場所の象形と、手に物を持つ象形と女性の象形(女性が土なべに手をかけて食物を煮るさま)」と「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形で構成され、「子供によくものをのみこませるように、門の両わきの部屋などに設けられた場所」として「じゅく」を意味する「塾」という文字ができたといった成り立ちがあるようです。
ひな鳥が赤ちゃんに餌をやる、「巣」のような場所だったのでしょうか。
微笑ましいエピソードです。
学舎という言葉
「学」➕「舎」
単に、学ぶ場所といったイメージを持ちますが、一体「舎」にはどんな意味があるのでしょうか
舎には天空の下にある草原といった意味があるようです。そこから、場所とか建物とか、目下の者といった意味もあるようです。
学舎は目下の者が学ぶ場所といったところでしょうか。
学生は役人になるために勉強中の人という意味
先生は先に生まれた人という意味だそうです。
現代では同じような意味合いで使われている言葉ですが、その成り立ちには異なる目的があり、現代にもその影響が残っているような気がします。
なぜなら、「学校」、「教師」、「生徒」という言葉がそのまま使われているからです。
このまま何の考えもなく、「学校教育」を続けていって、現代の「学び」という概念を発展させる事はできないのではないかと思い始めてきました。
オルタナティブ/フリースクール
次回は2024年の4月に開校するフリースクール「とさ立志塾」について、書きたいと思います。
この学校では子供も大人も共に学び、自然豊かな高知県の山間部で感性を育みながら、現代のテクノロジーとも融和しつつ、クリエイティブな柔軟性や様々な人材との協調性やコミュニケーション能力を伸ばす取り組み、生きる力をつけようという取り組みを始めます。
共育(キョウイク)
→共に、育つこと
「育苗」
大事なポイントは
苗を大人が「育てる」ではなく
皆んなの苗が「育つ」です。
次回、おたのしみに