森を見て木を見ない耳〜音楽好きの雑記〜
トリックアートなどで錯視というものが有名になっている今、
目と脳との連携で初めて「見る」が完成していることを
多くの人が感覚的に知っているのではないかと思う。
聴覚もまた、耳と脳との連携で成り立っている。
そして自分の脳はどうにも使い勝手がよろしくない仕様となっていて、
成人してからADHDと診断されたケースの一人だ。
ADHDと一口に言っても
どんな特性がどの程度あるのかというのは、かなり個人差がある。
自分は多動性よりも不注意が目立つタイプで、
そのことは視覚処理能力にも表れていて
「常に木を見て森を見ず、森を見て木を見ずのどちらか一方の状態」
と思ったほうがよいようだ(動作性IQテストの結果からも明らかなこととして)。
そして近年、どうやら聴覚においても
この特性がかなり影響していることが分かってきた。
歌詞を音としては聴き取れていて、
記憶していてそらで歌える曲でさえも
「歌詞の意味を把握していない」ことがある
ということが判明したのだ。
音としては聴き取れているってどういうこと?
と思うかもしれないが
幼い頃から歌うことが好きな人は、こんな覚えはないだろうか?
意味も知らずにちょっとオトナな歌詞を覚えてしまい、歌っているところを見て身近なオトナ達が苦笑いをしていた記憶が。
とはいえ日本語は自分の第一言語(ちなみに第二言語はまだない。英語をもっと理解したいが、ずっと手間取っている)。
「母国語を音としてのみ認識する」という感覚は
幼い日の思い出にしか存在しないと、
自分ではすっかりそう思っていた。
しかしどうやら実際は
歌詞を音として聴いてはいるが、
言ってみれば「話を聞いていない」現象が
大人になっても起こっていたのだ。
そしてそれはおそらく「木を見て森を見ず、森を見て木を見ず」な脳の影響なのではないかと思われる。
楽曲の要素を当てはめてみる。
サウンドという森を様々な音が構成し
ボーカルはこちらから見てセンターに立つ木と考えると
リリック(詞)はセンターの木の葉っぱかもしれない。
視覚も聴覚も、最終的に脳が処理をする。
「バンドサウンド全体を聴いているときはボーカルの放つリリックに集中できない」という現象が起きても、何も不思議はないはずだ。
自分はただの患者でありド素人だが、
これは当てずっぽうの憶測ではなく、理由があっての推測だ。
ADHDなどの発達障害者はカクテルパーティー効果がうまく働かないことがある
というのは、わりと有名な話なのだ。
カクテルパーティー効果についてはリンク先のWikipediaの説明が簡潔でわかりやすい。
発達障害についても触れられているが、流石に細かくはないようだ。
自分の場合は、広い街中の人混みなど音の種類が多いところでカクテルパーティー効果が機能していないと感じる。
疲れてしまうので、苦手だ。
その感覚は順を追うなら
「カクテルパーティー効果が働かないことで常に情報過多になり、負荷(ストレス)がかかる」
と言ったほうがしっくりくる。
また、電車に乗っていて聴こえる走行音の大きさに耐えられずカナル型イヤホンを耳栓として使うなど、
具体的な数値を測ったことはないが
何dB以上の音量に耐えられないといった様相の聴覚過敏性もあるにはある。
ただ、自分はカクテルパーティー効果を全く「持たない」わけでもないのかもしれないとも思う。
キャパを超える量から選ぶのでない限りは、
「木を見て森を見ず」が使える。
街中で同行人の声を拾うときのように
意識してボーカルに集中すれば、
ある程度は言葉としての意味も理解した上で記憶できる。
けれどその集中力は、無意識には発揮されない。
不注意タイプのADHDであることがここでハンディキャップとなる。
ただし、冒頭でも書いたように
発達障害はとても個人差が大きいので、
あくまで一例、イメージのとっかかりとして捉えて頂きたい。
聴覚が「森を見て木を見ず」状態になってしまい
歌詞を瞬時に把握できないことで
何か困ったことがあったのかというと、
好きな曲の好きなところを挙げようとして
「歌詞のこの部分が特に好き」みたいな話ができない曲があると
何というか、
悲しい、というと大袈裟かもしれない。
寂しい、が一番近いと思う。
自分も活字で読めば確実にスッと歌詞が頭に入るので、
「歌詞も含めて好きな曲」も、沢山ある。
あるのだけれど、
近年、サブスクアプリをメインに据えてからというもの、新しく知った曲の歌詞の読み込みを怠っていたことに、
後から気づいたんである。
気づいた時には何曲もその状態で、
そのことを
「寂しく」感じたし、
悔しいのだとも思う。
CDをレンタルすることで沢山の曲を聴いていた時代は、
初見の曲も歌詞カードを読みながら聴くことができていた(たまに入ってなかったけど)。
歌詞カードのおかげで、昔は歌詞を理解していない曲のほうが(割合としては)少なく、
だからこそ自覚が遅くなったのだ。
もちろん、各サブスクアプリに歌詞表示機能があることは知っている。
ただ、全ての曲が歌詞登録されているわけではないし、たまに明らかな誤字があったりする。
今の状態では、他の歌詞も正確な表記をされているのか、怪しく思えてくる。
なので、今のところ歌詞表示機能は信用しすぎないようにして、
違和感を覚えた時には、カラオケに入っている曲であればカラオケ機の公式サイトで確認している。
難なく日本語の歌詞を聴き取れている人でも、
英語のリスニングに長けていない人が
洋楽を聴く時に歌詞をよく読むというフェーズを挟むことがあるはず。
それと同じようなことを邦楽でもやって、
やっと自分は歌詞について語れるのだ。
べつに、どんな風に楽曲を聴こうと自由だとは思う。
ちなみに洋楽に至っては、CDを買うくらい好きなのに歌詞を理解しないまま聴いていた時代だってある。
ただそれも事情あってのことだったし、
自分は本の虫で、
今こうやってnoteで書いているくらい
言葉への興味関心も強いので、
どちらも楽しみたいのである。
ただサウンドとリリックを両方いっぺんに味わうには不器用だったというだけで。
両方味わいたいから、工夫をしたまでだ。
…思ったより長くなってしまった。
ここまで読んでくれた人、ありがとうございました。
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──おしまい──