君の名は希望

加藤王の記事で、加藤さんの自己肯定感が低そうということを書いた。実はこれ、人のことを言えない奴が言っていたという話。

器用貧乏という言葉があるけれども、自分の場合は本来の言葉通りというより「それなりになんでもやれるはやれるけど決して秀でているわけではないと思ってしまう」という、その発想自体が貧乏というやつだ。
だからこそ永田さんのような、嘘でもなんでもいいから自信がある風で挑める牽引力のようなものが眩しいし、憧れる。

そしてそんなある種のガムシャラさが羨ましいと同時にかわいくも感じる。なんていじらしい生き物なのだろうかと。強くいられること、一生懸命でいられることって当たり前じゃない。
この常に一歩引いたようなテンションの生き物とは、なんだか全く違う生き物を見ているような感覚。

自己肯定感の低さと割と平坦なテンションは幼少期から思春期にかけての家庭環境に由来するものだ。
おさえつけられ、否定されることが日常化すると、常に顔色をうかがうのが癖になっていく。機嫌をとるようにへらへらと戯けてみせたりして、場の空気を変えるよう試みたりする。
基本的に自分の希望は口にしない。ただ内側で育てたり、おさえつけてみたりするだけだ。

家庭内で癖付いたそれは、外の世界に出ても同じ。
そのうち自分が何をしたいとか、どうしたいかがわからなくなる。相手の望むものを探るようになる。相手が答えを持っていなかったとしてもだ。

そしてそのうち、全部どうでもよくなる。
少ないながら、内に秘めながら好きだと思っていたものは残っていて、それだけを握りしめて他は全部捨ててしまった。
今とは別の、自分を守れる真っ新な場所に逃げることにした。こんな人間、きっとこの世にも長く留まれないだろうと思っていた。
そんな気持ちでいるから、基本的に自分のためには頑張れない。それなりに楽しく暮らせたらいい。幸いなんでもそれなりにできたし空気だけは読むので仕事には困らなかった。

それから月日は流れ、自分にもそれなりに生きる意味はできた。
それでも、未だに苦労する。
あまりにも希望がない。尋ねられても答えられない。
好きなものも、否定されたくないから近しい人にも明かせない。
当たり障りのないことを話してその場は切り抜けられても、心の内側に納得していない自分と曝け出せないことへの罪悪感のようなものが居座り続ける。

厄介なのはこれで人が好きなところだ。だからこのままでいいやとも思えない。
戦い続けているような感覚。自分自身と過去の思い出と。

だからこそ以前述べたように、なりたい大人として加藤さんと永田さんの名前があがるのだ。
加藤さんは希望、永田さんは目標である。

人に話せない分、せめてここでくらいは言いたい。だからnoteをやっていると言っても過言ではない。

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もちろんライターのみなさんも好き好き。

おかげで毎日楽しいと思えている。
それからこのnoteやTwitterなどちらっとでもみてくれるみなさんのことも好き。感謝。

おかげさまで生きております。これは真理。
好きとありがとうの気持ちで、日々を生かされている。

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