「うまそうな店を見つけてきた」
と帰ったばかりの父が揚々と話し始めた。母ははにかんで、父の話に、あらびっくり、とか、それはすごい、とか、さすがあなた、とか父の気分を害さない絶妙な相槌を打ちながら、おそらくはしっかり頭の中でその店について吟味した結果、
「いいわね、行きましょう」
と言った。
僕が大人になってからは、食事はそれぞれで取る、という習慣ができていた。好みも違うから、必然とも言える(母は鮮度重視、父は濃い味が好きで、僕は繊細さを大事にした)。大人になってみて、生きていることの、特に毎日食事にありつけることの有り難みを痛感していたので、僕も行っていい?と控えめに参加表明した。母はあなたも行けるのねと微笑み、父はああいいよと早口で応えた。本当は二人だけのデートを望んでいたのかもと気付いたけど、取り下げるのは不自然な気がしてやめた。
考えてみれば、家族揃っての外出は随分久しぶりだった。父の真横で楽しみねと繰り返す母の、少し後ろからついていく。父は上機嫌で、雨が降ってきたというのに涼しくてちょうどいいと空を仰いだ。母はいつもはしない薄化粧をしていた。僕は、念入りに磨いてきた歯の裏側を舌で舐めた。
父は事前に予約をしていた。こんなことは初めてだった。開店と同時に中へ案内された。ブッフェだった。僕はこの形式は苦手だ。自分で取るなんて、狩りと変わらないじゃないか。
それでもいそいそと何を食べようかと物色し始めた。たくさんの悲鳴が聞こえる。両親はもう食べ始めたみたいだ。心地いい音楽。いつだって食事には人間の声がある。その声次第で、食欲が増すことだってある。僕はどちらかと言えば高い声が好きだった。だから男女が二人いるなら、まず男の方から食べる。その方が女の声をたくさん聴けるからだ。
走り回る人間たちの中から、一組の男女を選び、地面に叩きつけるように捕獲する。ポリシー通りにまず男を食べる。より繊細でおいしい女の方に手をつけた時、妙な声を聞いた。女のものでも、男のものでもない。どちらかというと、洞窟で反響する風の音みたいな。
かつて近所の洞窟で、父が初めて人間を食べさせてくれたことを思い出す。バサバサとよく手入れした羽を鳴らして舞い降りた父の手に、死んだ人間が握られていた。それまで、森の小動物を母が咀嚼して吐き出したものしか食べたことのなかった僕は、鼻を塞ぎながらそれを食べた。こんなににおいの強いものは初めてだった。後になってそれは血のにおいだと知った。父は「生きていくためには、食べることが必要なんだよ」と言った。風に似て優しい声だった。生まれたからには、しっかり生きような。
振り返ると、父が倒れていた。首から上のない母に覆いかぶさるようにして。そして僕は緑色にきらめく何かを目の端で捉えた。それが刃物だとわかったのは鋭い痛みが体中を駆け巡った瞬間で、次の瞬間には僕は僕を上から見ていた。
「魔物め!」
遠くから人間の声がした。
中身のない僕の体は二つに分断されて、ずうん、ずうんと地面に落ちた。剣を携えた男は食べかけの女を抱いた。僕の体は、半分になった女と似ていたが、僕の半分を抱きしめてくれる者はなかった。開いたままの片翼は、思っていた以上に父に似ていた。
体の重さを失くして中空に浮かびながら、生まれたからには生きていかねばならないことを、人間も知っているんだなと思った。僕はしっかり生きられたのだろうか?小雨の道すがら、父に聞いてみればよかったと思い、でもそれ以上何も考えることはできなくて、ちりぢりになって風の音に飲み込まれるのをただ感じていた。
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こちらの小品は、雪人形さんの企画 シェアードワールド でご一緒させていただいている、
雨の中でひとりさんの「遅れてきた勇者」
タキさんの「間に合わなかった勇者」
お二人の掌編の、もう一つの視点から書きました。
公開をご快諾いただき、ありがとうございます。
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