人々が専門家をバカにしてペテン師に従うようになるまで
著者:ケイヒロ、ハラオカヒサ
はじめに
新型コロナ肺炎と真剣に向き合わざるを得なくなってから1年半以上が過ぎた。あまりに多くの出来事が矢継ぎ早に発生し、しかも切実な問題として暮らしに降りかかってきたため、1年半どころか1ヶ月前に何をどのように感じていたかすら記憶が怪しくなっている。
たとえば、いつから専門家の警告や提言を無視したりバカにする人々が増えたのだろうか。新型コロナウイルス感染症対策分科会長の尾身茂氏をバカにし攻撃対象にする人までいる。何かきっかけがあったのだろうか。
こうした人々は少数であってもノイジーマイノリティーとして社会に思わぬ作用を与える。漠然とした意識の人にワクチン忌避の理由づけを与えているし、イベルメクチンなど新型コロナ肺炎の予防や治療に効果がない医薬品を求める人を増やし必要な医療現場で手に入りにくい状況を引き起こしている。その嘲笑や攻撃的な態度は専門家とくに医療関係者を疲弊させる原因にもなっている。
専門家をバカにしている人たちも志村けん氏が亡くなった直後は新型コロナ肺炎について解説する専門家の言葉に耳をそばだてていたのではないだろうか。筆者が追跡している805件のTwitterアカウントにも、この傾向がはっきり現れている。
専門家の言葉に耳を傾けていたあのとき
人それぞれ違いはあるだろうが、新型コロナ肺炎を意識せざるを得なくなったのは2020年1月20日以後だったように思われる。
1月19日、この年の春節を迎え例年のように中華人民共和国からの観光客がおしよせると報じられ、湖北省武漢を中心に猛威をふるっている未知の肺炎が持ち込まれるかもしれないと心配する人が少なくなかった。そして春節の観光客が多数訪れ都市部のドラッグストアでマスクを大量に箱買いされる様子を目撃した人も多い。
2月になっても停泊中のダイヤモンドプリンセス号で発生したクラスターは対岸の火事と目されていた。2月末に北海道の感染者数が国内初の危機的状況になり、3月末ECMOを装着して闘病の末に志村けん氏が死亡する。新型コロナ肺炎とはマスクや消毒薬の不足に振り回されることだった多くの人々に、自分と家族の生死を考えざるを得なくしたほど状況が急展開した3月だった。
4月には3密への注意喚起と手洗いの徹底など専門家からの提言が続き、いまに至るコロナ禍での私たちの暮らしの原型がかたちづくられている。こののち「なぜ日本は感染者が少ないのか」という問いが発せられた時期があったが、「マスクと手洗いの徹底があったから」と多くの人が答えたのも専門家の声に耳を傾け皆が実践した証拠のひとつだ。
専門家の提言がどのくらい影響力があったかといえば、後に“コロナはただの風邪”を掲げ反自粛や反マスクを訴えるようになる国民主権党と党首の平塚正幸さえ、4月のマスク不足の折にYouTubeで布マスクづくり講座を公開していたくらいだ。
分断と甘い願望
2021年1月から3月までを専門家を軽視する風潮がなかったコロナ禍第1期とするなら、緊急事態宣言を経験して自粛と反自粛が対立しはじめた4月から6月まではコロナ禍第2期と分類できるかもしれない。
第2期の特徴を一言で表現すると「分断」だ。立場の違いをことさら強調する主張が相次いで登場し、自粛を強いる老人と強いられる若年層という怨嗟の声があふれ、製造業蔑視と言われてもしかたない主張をした演劇人もいた。
分断を煽る動向のひとつに“コロナ脳”という言葉と揶揄があった。自粛を求めたり、自粛要請に従ったりすることが(以前からきわめて一部にあった言い回しを使い)“コロナ脳”と呼ばれ、“コロナ脳”を好んで使った人々は専門家の注意喚起や提言を揶揄して「経済を回せ」と主張した。
以後“コロナ脳”発言は政治への不満だけでなく、自粛を提言する専門家への揶揄や攻撃の度合いを強めて行った。
こうした背景があって、7月に都知事選が行われ国民民主党の平塚正幸が“コロナはただの風邪”とともに反自粛・反マスクを掲げて選挙運動を展開している。布マスクづくり講座をYouTubeで行うより、憎しみを焚きつけた方が有利と見たのである。
すべては関連していたのだ。
9月になるとピーチ機に搭乗した男がマスク着用を拒否した事件や堀江貴文が旅先の餃子店のマスク着用ルールに難癖をつけるできごとがあり、こうした行動は批判を浴びると同時に生活や商売を制限されたくない人々を刺激した。緊急事態宣言やまん延防止等重点措置は有名無実化して行き、規制のがれや闇営業、路上飲みや居酒屋やカフェで無防備に飲食するなど2021年の春以降問題視される行動の兆候が現れている。
専門家の提言に従い感染拡大を抑えようとする層の努力に、新型コロナ肺炎の厳しい現実を直視せずに甘い願望を抱いて欲望のまま行動する人々がフリーライドしはじめたのだ。このような7月から10月までの4ヶ月を、甘い願望を分断とともに正当化しようとしたコロナ禍第3期だったと言ってよいだろう。
分断と自己正当化
緊急事態宣言に不満を募らせる人々が登場したコロナ禍第2期(2020年4月から6月)に専門家軽視の発端があった。
自粛を求めたり従ったりする人を“コロナ脳”と揶揄する人々については前述したが、製造業を引き合いに出して演劇への理解と支援を訴えた平田オリザの発言も象徴的なできごととして忘れてはならない。
“コロナ脳”発言と平田オリザの主張はともに、我々と他者、我々と政府といった利害対立からのポジショントークによって自己正当化と権利の主張をし人々に分断を焚きつけた点で同類と言える。主張を世のため人のためと取り繕っているのも同じだ。
平田オリザ発言の演劇や音楽業界への浸透力は無視できないもので、たとえば2021年8月のフジロックフェスティバル開催によせたASIAN KUNG-FU GENERATION/後藤正文の発言(わきまえていないのは 4-4)は、平田オリザ発言の延長線上にある。
7月に「オリンピック地獄だな」とツイートしながらフェス出演判明で批判を集めていた後藤正文は、
「予期できたのではないか」と言う言葉もあるかもしれないが、それもまた、市民どうしがお互いに向ける言葉というよりは、政府に向けるべき言葉ではないかと思う。感染症対策の責任は本来、彼らにあるはずだ。(わきまえていないのは 4-4)
徹底的に自助に委ねられている。これを悪政と呼ばずして、なんと呼ぶのか。(わきまえていないのは 4-4追記)
TOSHI-LOWが「ネトウヨやめてよ、レイシストやめてよ、差別をやめてよ」と歌い上げると、後藤も「ガースーもうやめてくれ、棒読み答弁聞きたくない」と歌っていた。(フジロックでアジカン後藤が菅義偉首相批判 「ガースーもうやめてくれ」と替え歌/リアルライブ)
と発言している。科学的根拠をもとにオリンピック開催や観客の有無を論じる姿勢と、利害対立からのポジショントークと自己正当化はまるで別物だ。
“コロナ脳”発言と平田オリザ的な主張で政府に向けられた矛先が、政府に提言する立場にある専門家にも、説を同じくする専門家にも突き刺さるのは当然の成り行きだった。なぜなら緊急事態宣言を発するのも自粛を求めるのも政府であり、根拠とされる提言は専門家からのもので、それは他の専門家にも支持されているからだ。
“コロナ脳”発言といくつもの平田オリザ的な主張。憎しみを焚きつけた方が有利と見た国民主権党の平塚正幸。政府のコロナ対策の正反対を主張すれば支持を得られると考える政党や政治家の発言も続いた。直近ではASIAN KUNG-FU GENERATION/後藤正文の発言があった。
「あいつらのせいで」我々は損をしていると主張すれば、敵をつくり出して自己正当化できるのだから、自粛に反した行動で公衆衛生を破壊していると思われたくない人々にとっては願ってもないよりどころになる。
分断は、ある一方を味方につけることに他ならない。数は力、数は正しさ(正当化)の根拠として使える。そしていずれの言動も巡りめぐって専門家軽視、蔑視といった風潮を底支えする燃料となった。
分断の先で肯定してもらいたいだけの人々
いつ、どのような背景から専門家軽視や蔑視の潮流が生じたかわかった。
ではなぜ、専門家を否定する人々はペテン師のもとに易々と引き込まれるのだろう。それは甘い願望を肯定してもらえるうえに望み通りの解決策を示してくれるからだ。たとえば「あいつらのせいで、あなたは損をしている、不安を解決できないままになっている」と囁くペテン師がイベルメクチンを差し出している。
イベルメクチンをめぐる甘い願望とは何か。理由はなんであれワクチンを接種しないで済ませたかったり、2019年までの生活そのままに行動するための予防薬や感染しても飲むだけで治る治療薬への期待であり願望だ。
「専門家の話を否定して素人の言い分を信じるなんておかしい」と言う人は多い。たが合理的な考えから行動を最適化できる人は思いのほか少ないのだ。
駅で乗り換えがわからないときの最善策は駅員に質問することだ。駅員が教えてくれた乗り換え方法を否定して通行人の言葉を鵜呑みするのは馬鹿げている。
だが多くの人は駅員にも通行人にも質問しないまま思い込みで行動する。これでうまくいって当然で、失敗したら駅のせい、駅員のせい、なんだったら政治が悪いとまで言いがちだ。そして駅員に質問する人が少ないだけでなく、駅員の説明通りに行動できる人もまた少ないのである。
駅での困りごとを医療に置き換えると次のようになる。
相手が医師か素人か問わず質問するならまだよいほうで、思い込みだけで行動する人が多いうえに、元気なうちは選択した自分が絶対正しく、悪化したら医療が悪い政治が悪いと言う人が多い。そして医師の話を聞いても説明通りにできない人がいる。
こうした行動を取る人は自分の思い込みや願望を肯定するものへ接近して行くので、向かった先にいる素人やペテン師の言うことを信じているようにみえる。だが行動にむすびつく結論は、ほぼ完全なかたちで思い込みのなかにあるのだ。医師の側へ寄っていかないのは思い込みが否定され願望を打ち砕かれるからにほかならない。
これは近藤誠と彼に引き寄せられる人の関係にも言える。癌になるまえに近藤の主張を信じるのは、癌になったとき何がなんでも手術をされたくないし標準的な治療を受けたくないと考えているからだ。近藤にセカンドオピニオンを求める人もまた、まず願望があり願望を肯定してくれる近藤に接近する。
コロナ禍の甘い願望は、ワクチンを接種しないで済ませたい、2019年までの生活そのままに行動したい、昔のように儲けたいといったところだろう。これを肯定するのが“コロナ脳”という揶揄であったり、自粛を強いる敵がいるという主張であったり、これさえあれば新型コロナ肺炎は怖くないというイベルメクチンであり、こうした情報が大声で拡散されている。
そして甘い願望を抱く人々は医師や専門家に言う「おまえらのせいで損をした」と。数は力、数は正しさの根拠にできるとばかりに、SNSや現実の世界で勧誘を続けて仲間を増やそうとするのだ。
参考資料
・コロナ脳の発祥と伝播について
・平塚正幸とコロナはただの風邪について
・2020年1月〜12月の出来事/コロナ禍カレンダー