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統一教会と世の中の噛み合わない論点

 統一教会と世の中という区分けをしたとき、両者についての世の中での論点と、統一教会の人たちの論点がまったく噛み合っていない。

 世の中の統一教会問題とは霊感商法と高額献金と政治であったり韓国であったりする。ただし世の中の人々には、ここに列記した単語以上の踏み込んだ知識はないうえに、どれにもさほど興味がない。統一教会は漠然と嫌なもの、自分の暮らしに関わってほしくないものと認知されている。
 実は、信者は霊感商法と呼ばれるものを行わないし、いまどきは高額献金をすることさえ難しくなっている。教団がこうなるように仕組みを作ったのだ。他の宗教が高額のお布施や献金や玉串料を受け取るとき、厳重に確認書を取り交わしたりしないのだからだいぶ異例な措置を取っていることになる。
 こんなことからして、世の中と統一教会は論点が噛み合っていない。

 私は何人もの信者と何度も会って話をしてきた。彼らは世の中が自分たちの暮らしに首を突っ込んできて引っ掻き回して行くことに戸惑い、理不尽さを感じていた。
 ここでも世の中と彼らは論点が噛み合っていない。
 世の中の人たちは自分の暮らしに統一教会が関わって欲しくないだけで、引っ掻き回してなんかいないと言うだろう。統一教会のことなんて、もう何ヶ月も考えていないと。
 ところが教団は解散命令請求へ追いやられているうえに、自動車を買おうとすればディーラーから拒絶され、自治体からは断絶宣言され、ボランティア活動をすれば実名が暴露され、自殺するまで追い詰められた信者がいる。

 だから教団は実情を世の中に知ってもらおうとする。信者は信教の自由を守ってほしいと活動する。とても当たり前な行動だ。ところが世の中は、教団の実情と信教の自由について切実さを感じていないので、理解するために労力を費やさない。ありていに言えば、世の中は統一教会を無視する。だから世の中は、統一教会問題とは霊感商法と高額献金と政治であったり韓国の問題ということにしたまま放置している。
 世の中の大多数にとっては統一教会より仕事、家事、子育て、勉強、老後の心配のほうがよっぽど一大事なのだ。
 このような状況の中、信者らを挑発したり揶揄するカルトの専門家や宗教学者がいる。彼らが、あたかも世の中の側を代表するかのような素ぶりをしているからややこしさが増している。

 数年間にわたり世の中と統一教会の狭間に立ってきた私は、このように感じている。統一教会と信者が経験している理不尽さが、いつか統一教会に無関心な世の中にも襲いかかってくる可能性が高いと見て、私は声をあげてきたのだ。

 この問題に関わってしばらくしたとき、信者を名乗る人から「教団に口出しするな」とツイッターで言われたので、「そんなことは考えたこともない」と答えた。これが私の基本姿勢で、教団のことは教団の人たちで決めるのが当然で、私は世の中の人の側で右往左往して、もし求められたらできることをするだけだ。
 とはいえ、この人が守るべき指針やストッパーの位置を再確認させてくれたのも事実だ。また、この人が世の中と統一教会の距離感について教えてくれたおかげで、論点が噛み合わないことこそが教団と世の中の関係で最大の問題なのを理解できた。

 あたりまえだが、人と人の対立は立場の違いから生まれる。
 正当性を訴えても、相手が理解を示してくれることなどほとんどない。正当性に理解を示そうと動き出すのは、それが身内であるか、そうしたほうがより多くの報酬が得られるときくらいだろう。だから、統一教会はリング上をコーナーポストまで追い詰められたのである。

 安倍晋三氏が暗殺され、ワイドショーのミヤネ屋が鈴木エイト氏と紀藤正樹氏をスタジオに呼んで連日騒いでいたとき、信仰の告白を強要されたり、差別を受けた信者らを前にして、事態の深刻さに私は彼らを励ますことさえできなかった。翌年も半ば過ぎまでは、取材中にお互いが頭を抱え合うのも珍しくなかった。
 ところが年末近くなると風向きが変わった。その後、ますます変化があった。

 変化はどこで、どのように表れたのか。
 私は教団のことは教団の人たちで決めるのだし、信者の気持ちをわかった気になるのも嫌らしい態度だと思い、事実を整理したり、整理した事実を世の中に伝えていた。講師として呼ばれた席で統一教会が責められている事情をありのままに説明したり、取材先でインタビューイから逆に質問されて答えたのは一度や二度ではなかった。このnoteでもX/ツイッターでも伝えた。すると世の中と統一教会が接する場所で、潮が満ちた波打ち際のように世の中が信者の側へ寄せてきたのである。

 私は機会あるたび、出会ってきた一人ひとりの信者の姿を通して統一教会の今を説明した。X/ツイッターで私と信者が世間話をしているのを見た人もいるだろう。すると、とても狭い世界とはいえ、世の中と統一教会の論点が噛み合いはじめたのだ。
 信者の側へ寄せてきた世の中の人は、統一教会の教義を信仰しようというのではない。奇妙な人たち、価値観が違う人たち、現実の世界では会ったことのない人たちであっても、同じ市民、同じ人間同士と気付いたようだ。
 きっと、変化は別の場所でも起こっていることだろう。

 結びを意識しないまま書き出して、終点に達しようとしている。
 いま私は、10代のほとんどを過ごした静岡市にあった一軒の中華料理店を思い出している。地方都市には珍しい中国系の一家が営む料理店だったせいか、店のお婆さんが梅毒患者であるという、食べに行くと梅毒がうつるという子供にさえ不愉快に聞こえる噂があった。皆が、こそこそ、こそこそ噂したのだ。
 北京料理をもとにした大衆的な料理を出す店だったが、白く、大きく、しっかりした中華饅頭が絶品だった。
 時代が移り変わり、再開発の波が押し寄せて閉店するまで、常連さんたちが店に通った。常連さんたちは噂をものともせず、かといって声高に何かを叫ぶこともなく、この街に、この店があってもよいのだと身をもって示したのだった。
 噂話をしていた人たちとは最後まで論点が噛み合っていなかったが、店主一家と常連さんたちは違ったのである。

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