見せしめを生み出してはならない。吊し上げる者どもを許してはならない。
いわゆるLGBT法案にとどまらず、これらの周囲にある課題について自分の考えを述べるのが怖いと言う人が少なくない。問いかけるだけで、女優の橋本愛さんのように吊し上げられるのが懸念されている。
さまざまな女性から不安の声があがっている。男性やLGBTの人々からも懸念の声が漏れる。浴場や更衣室やトイレを持つ商業施設も戸惑っている。こうした声さえ差別とされる現状を「おかしい」と言ったところで対話ははじまらない。なぜなら、既存の価値観と感覚は「差別」とされたからだ。
時速50キロメートルで自動車を運転していたとしよう。思い切りブレーキを踏んでも、この自動車が止まるのはおおよそ30m先だ。人々の価値観と感覚もまた同じであり、新たな価値観と感覚に移行するには時間がかかる。不安、懸念、戸惑いの声が、急ブレーキの前後に登場しても不思議ではないし、これだけをもって差別とされるいわれはない。
だが貼られてしまった「差別主義者」のレッテルは自分では剥がせない。問いかけることさえ差別になった。既存の価値観と感覚が差別なのだと「決まった」。橋本さんは、畑に吊るされたカラスであり、見せしめにされている。無言のまま首を縦に振らないなら、ああなるということだ。
見せしめにしたつもりはないと反論する人がいても、あれは見せしめだと言おう。不安、懸念、戸惑いの声を、これだけで醜い声と決めつけるなと言おう。あなたがたが得たいのは私たちの理解なのか、私たちが従属したり屈服することなのかと逆に問いかけよう。私たちも同じ社会に暮らす当事者だ。あなたがたと私たちが平等で対等とは、そういうことだ。
双方の不信感に基づく分断を、手段にするのも、目的にするのも愚かである。誰も見せしめにしてはならない。見せしめにすることだけでなく、見せしめを生み出して吊し上げる者どもを許してはならない。暴力を許してはならないと声をあげよう。多様性のある社会のために。