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鴨下家は福島を代表するのか 鼻血は何だったのか
・2024.9.2 21:50 赤坂プリンスホテル避難所の様子を伝える報道、広報等のスクリーンショットを追加。
加藤文宏
1 はじめに
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鴨下全生氏がX/Twitterのアカウントから「レジ袋で鼻血を受けながら歩く子供 避難所でよくある光景」とポストしたのは記憶に新しい。ポストで示されたリンク先では、
あの時、避難所には鼻血を出す子どもが多くいた。しかも、尋常ではない量の鼻血を出す子が沢山いたのだ。レジ袋や洗面器で鼻血を受けながら歩いている子ども。共同洗濯場では、布団についた鼻血をどうするか母親達が話し合っていた。私自身も、洗面器で受けるような鼻血が繰り返し出続け、最終的に、手術をして鼻の血管を焼き切ることにした。私にとって、初めての手術でとても辛かったのを覚えている。当時は、これが何なのか分からなかったが、後から、双葉町や宮城県丸森町といったプルームが通った地域で、鼻血の症状を訴える人が別の地域に比べ非常に多かったことを知った。被曝の量から考えてこの症状が急性被曝による確定的影響ではないことは明らかだろう。ただ、自分の避難所だけでなく、多くの地点で何かしら異常なことが起きていたのかもしれない。
と福島第一原発事故が発生した直後の避難所で経験したことを語っている。
鼻から出血するほど被曝したなら生命の危機だったはずだが、避難所でも他の場所でも被曝死した人はいない。そこで鴨下氏に、その避難所がどこなのか尋ねても彼は答えない。
この日から全生氏は、いつ、どこの出来事で、どの程度の量か説明がないまま福島県は汚染されていると言い続けてきた。
そして8月26日に、
桃農家や福島に住んでる人の被曝を、無責任に安全だと断言したり奇形児になると断言するのは本当によくないと思います それは科学ではありません 外部の人間が被曝の許容について判断すべきではない
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と言い出したのだった。鴨下氏は福島県の「内部の人間」つまり当事者として振る舞い、自らには発言権があり批判者にはないと言いたいようだ。
全生氏ならびに一家が語る「鼻血」とは何か。
彼ならび一家が、福島県民または被災者を代表する立場にあるのか。
この2点を検証しようと思う。
2 レジ袋で鼻血を受けて歩いていた子供はどこに居たのか
鴨下家は、避難する必要がない福島県いわき市から関東に逃げた自主避難者だ。
では鴨下家がどのように避難したか整理しよう。
鴨下家が暮らしていたのは1970年代に分譲が開始され、2010年代初頭まで空き地が残っていたいわき市の新興住宅地だ。現在約3500世帯、約7200人が暮らす閑静な住宅街に入ると、どこまでも家並みが続き、東西南北いずれの方角にも空が大きく広がっている。
この住宅地にある庭付き二階建ての家から、震災翌日の3月12日の早朝に一家は自家用車で避難を開始した。なお福島第一原発1号機の建屋が水素爆発を起こすのは、彼らが避難を開始した9時間程度あとの午後3時36分だった。
いわき市から関東を目指す場合、常磐自動車道か国道6号を使用するのが普通だ。同日、常磐自動車道は地震により破損し区間通行止めで、沿岸部の国道6号は津波被害を受けていた箇所があった。これらを部分的に回避して南下するルートを使わず、一家は国道49号で山越えして郡山市方面に向かい、白河市方面へ南下し、国道4号に出たと父祐也氏が証言している。白河市から関東へ入り、母美和氏の実家がある横浜市保土ヶ谷区に到着したのは翌13日の未明だったという。
福島県在住者から、道路事情の混乱があったとしても時間がかかり過ぎていると指摘されている。しかも自宅があった新興住宅地のそばに国道6号と、ジャンクションで6号と接続している49号があるとはいえ、49号で郡山市へ向かうのは横浜市を目指すルートではないという。筆者も、その通りだと思う。
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横浜市に到着後は、祐也氏と美和氏の証言が食い違うだけでなく、各人は折々に異なる説明をしている。このため大量の鼻血を流す子供がどこにいたか、まったくわからない。
前述した全生氏のブログでも、福島県双葉郡双葉町にある東日本大震災・原子力災害伝承館での出来事を語り、「震災当時のことがよみがえってくる。 あの時、避難所に」と続くため、福島県内で鼻血を大量に流す子供を目撃したかのような書き振りになっている。
だが鴨下家の人々は、福島県内の避難所に立ち寄ったり、避難生活を送ったとは語っていないので、鼻血の逸話は関東に開設されていた避難施設だったことになる。
祐也氏は横浜市保土ヶ谷区から東京の実家近く(小金井市)に移動し、実家近くにアパートを借り、息子は実家近くの小学校に転入したと説明している。彼は保土ヶ谷から赤坂プリンスホテルに設けられた避難所に入ったと証言することもあった。
美和氏は、保土ヶ谷、夫の親が暮らす東京の実家、その後はアパートやホテルを転々として避難所に入り、古い官舎の避難住宅に落ち着いたと説明している。
3 赤坂プリンスの避難所
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鴨下全生氏は「5月になると、僕たちは避難所となっていた都内の大きな廃ホテルに入ることになったので、結局、その小学校へはほとんど行かずに終わりました。」と『不登校オンライン(株式会社キズキ)』に掲載されたインビュー記事で語っている。
東京都に設置された緊急避難施設は、
東京武道館
味の素スタジアム
東京ビッグサイト
旧グランドプリンスホテル赤坂
都内旅館等の施設
都営住宅など
アジュール竹芝など東京都職員共済組合施設
東京セントラルユースホステル
だった。
このほか、
羽田空港に広域搬送拠点臨時医療施設
透析患者のために日本青年館ホテル
被災した児童・生徒のためにBumB東京スポーツ文化館
が用意された。
このうち大きな廃ホテルに該当するのは、2011年5月から6月まで旧グランドプリンスホテル赤坂(通称赤坂プリンスホテル/赤プリ)に設置された避難所しかない。赤坂プリンスホテルは再開発事業のため3月31日にホテル営業を終了した後、避難所として提供されたのだ。美和氏が避難先の赤坂プリンスで自主避難者であるのを理由に差別されていると、祐也氏が福島高専で話していたとする証言もある。
鼻血を流す子供たちを見たとされる避難所は赤坂プリンスホテルで間違いないだろうが、祐也氏が語るような自主避難者差別があったとは考えにくい。
千代田区によれば5月30日時点で355世帯778人(男性:367人、女性:411人)もの人々が避難のため赤坂プリンスホテルに滞在し、1世帯ごとホテルの客室が割り当てられていた。
朝日新聞の報道では5月27日現在、滞在していたのは約800人(福島県いわき市400人、南相馬市180人、双葉郡140人など)とされている。このうち最も多いいわき市からの避難者のすべてが自主避難者だ。少数派から多数派の自主避難者が差別されていたというのだろうか。
もとより個室に家族単位で生活しているため、ほかの避難者の生活がわからず、他人に干渉できるほどの情報を持ち合わせている人はそうそう居なかった。また赤坂プリンスホテル内に用意されたサービスを、誰もが全て平等に利用できたのである。
なお、支援ボランティア活動を行った東京医療ソーシャルワーカー協会は避難所の様子を次のように報告している。
館内の様子
○地下1階 学習室
コインランドリーコーナー 巡回時には、あまり利用されてなかった。
○2階 相談コーナー:東京都社会福祉士会・健康相談・東京都福祉保健局・千代田区社会福祉協議会・千代田区ボランティアセンター・弁護士会とあり。
食堂 3食提供される。朝・昼・夕に2択のメニュー 無料
スタッフも食事可能だが朝食300円・昼食、夕食は500円
食堂の隅に支援物資が置いてあり、自由に持ち帰り可。
(500Mlのペットボトルの各種水、衣類等)
○3階 図書室 出版関係の会社が共同で本を提供している。
○15階 キッズルーム 保育士の方が対応
○36階 マッサージコーナー 鍼灸士の方が対応。予約制で無料
○ホテルの客室 宿泊居室となっているが、もうホテルではないのでベッドのみしか入っておらず、アメニティはないよう。よってお湯は食堂まで行かないと手に入らないため、特に乳児がいる場合は不便している様子。ペットの預かり所あり。自転車のレンタルが可能。
4 鼻血の逸話とだいぶ違う避難所の様子
鴨下全生氏が語る鼻血の逸話から、どのような避難所を思い浮かべただろうか。体育館のような場所だろうか。低い間仕切りしかない床に雑魚寝せざるを得ない人々だろうか。屋外にある水道に行列して洗濯をする人々だろうか。少なくとも、都心にある高層ホテルと個室は想像できなかっただろう。
避難所はプライバシーを守れないと言われがちだが、赤坂プリンスホテルでは世帯ごと個室で暮らしていたので、他の避難者と繋がりが皆無で不安だったという証言がある。高層階から眼下に広がる東京の夜景を眺めて、孤独を感じたと語る人もいる。ボランティアとして入館した人は、バブル景気の象徴「赤プリ」が避難所になっていたので複雑な気持ちだったという。
人々は個室にこもっているのが飽きると、エレベーターに乗って求めるサービスが用意されている階に移動した。エレベーターは一日中、お互い見知らぬ人を乗せて上がったり下がったりしていた。
食堂や相談センター、キッズルーム、散髪サービスなどに人が集まることがあっても、これらは子供がレジ袋や洗面器で鼻血を受けながら歩き回る場所ではない。出血している子供が目の前にいるのに、スタッフが対処しないというのもおかしな話だ。
鴨下全生氏が共同洗濯場と言っているのはコインランドリーだろうが、利用者が少なかったことまで報告されているのに、鼻血で汚れた洗濯物や母親たちについての報告や記録がない。
「健康相談コーナーがあったのに、コインランドリーでこそこそ話をして解決しようとする神経がわからない」このように語ったのはボランティア活動をしていた人物だ。「どこに行けば何を相談できるかはっきりしていた。掃除機の貸し出しまでしているくらいだったから、シーツが汚れてたいへんだと言えばいくらでも手を貸してもらえたはずだ」
これが避難所の日常だった。
ホテルの敷地内でラジオ体操会が催されていた。キッズルームでは午前と午後に2時間ずつ子供を受け入れていたので、大人が息抜きしたり面倒な用事に専念できた。パソコンやプリンターが使用できた。ホテルの外に出て、ボランティア活動に参加する被災者もいた。精神的に余裕があった人は極めて少ないだろうが、収容所のような場所に押し込められていたのではない。
かといって赤坂プリンスホテルの避難所に問題が皆無だったわけではない。
食事がレトルト品中心だったので苦痛を感じる人がいたり、持病を抱えている人が体調を心配していた。また都心の一等地なので、日用品を買うため気楽に外出できないとか、高齢者が物怖じしていたという声もある。入館証が必要だったので、外部との交流が面倒だったともいう。
もし鼻血の逸話が事実なら、こうした避難所の日常が反映された「語り」になっていただろう。ところが、鴨下全生氏や美和氏はあたかも見通しが利く空間に鼻血を流す子供らが歩き回っているような、水道と排水口くらいしかない場所で洗濯をしているような口ぶりで出来事を語った。
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参加した子供の写真が掲載されている。
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参加した子供の写真が掲載されている。
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参加した子供の写真が掲載されている。
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子供たちの鼻血についての情報はない
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ホテル前で行われるラジオ体操に参加し、ボランティアの地区住民とも親しくなった。「支援が心強かった。これから寂しくなる」「いわきと違って、東京の夏は暑い。でも、しょうがない」という声が紹介されている。
5 いったい何を信用したらよいのか
曖昧な語り口や誤解を誘う語り口だけでなく、話をするたび内容が食い違うのが鴨下家の人々の特徴だ。
2012年2月6日の福島民報『水耕栽培諦めず結実 熱意続ける決め手』と題された記事は、
水耕栽培は土壌汚染の心配をする必要はなく、栽培した野菜から放射性物質はほとんど検出されなかったという。年明けからの寒さで、ブロッコリーの糖度はイチゴやメロンに近いほどまでに上がった。
野菜の甘さに顔をほころばせる学生を見て、鴨下助教授は「あの時、続けると言ってくれたことに感謝したい」と話している。
と鴨下祐也氏の様子を伝えている。
だが祐也氏は『原発なくそう!九州玄海訴訟』での2016年3月18日付けの意見陳述書で、
再開後,私は,研究指導生徒4名に対し,水耕栽培の研究を実施するか否か問うてみました。私は,生徒たちに,たとえ水耕栽培であっても放射性物質を含む野菜しかできないこと,私は実験を継続しない方がよいと思うことを説明しました。しかし,高専の生徒たちは,人生最後の研究の続行を希望しました。ある農家の息子である生徒は「自分が作ったものは必ず食べる。捨てたりしない。」と言い,他の女子生徒3名は,「政府が安全と言っているのであれば,基準値の500ベクレル以内であれば食べても構わない。」と言いました。
その後,検知器で収穫できた野菜の放射能量(ベクレル)を計測する日々が始
まりました。野菜の放射能量は一桁台で,土で栽培するよりも低い値でした。生徒達もその野菜を食べ,周囲に配ることもできていました。しかし,事故と同じ年の12月ころから放射能量が徐々に20,30,40と上がり始めました。この上昇する数値を見た時,水耕栽培でも汚染は防げない現実を突き付けられました。生徒たちは野菜を食べなくなりました。「野菜は捨てない」と言っていた農家の息子でさえもです。後に,国は,2011年の12月から翌年1月にかけて,セシウムの降下物の量が増大していることを公表しました。
とまったく異なる内容を語っている。さらに、
事故直後の5月,寮に住む一人の女子学生が心不全で突然死しました。部屋に行くと女子学生には反応がなく,私は必死に横たわる女子学生に心肺蘇生を施しましたが,もう手遅れでした。前日まで元気だった彼女は帰らぬ人となったのです。また,同じ年の12月,また一人,女子生徒が突然亡くなりました。
私は高専に15年間勤務しましたが生徒の突然死など経験したことがありませんでした。5月に亡くなった生徒は実家が浪江町にあり,震災で学校が閉鎖された後,実家の浪江町に戻り,放射性物質の流れる方に向かって避難していた一人でした。もう一人の生徒はホットスポットとなっている郡山に実家がありました。私は,この二人の女子学生の突然死について,放射性物質の危険性,被ばくの影響を疑わずにはいられませんでした。
私は,妻と子どもたちが避難している東京といわきを往復する生活に,体力的な限界を,放射性物質の拡散を止められず,放射性物質が至る所に浮遊している福島での生活への不安,家族と一緒に暮らせない毎日に精神的にも限界を感じ,いわきを離れることにしました。
とも語り、いずれも2012年2月付け福島民報記事での祐也氏の意気揚々とした態度と矛盾している。
また祐也氏は、2014年6月24日に取材され2021年3月14日にYahoo!ニュースに掲載された記事で、
(Q・学校を辞めるきっかけは何だったんですか?)
辞める理由はいろいろあるけど、その一つは体調が悪化したことです。放射能と関係があるか、私にはよくわかりません。放射線以外のストレスがかなり大きかったのはたしかです。担当していた寮で学生が亡くなったこともあったし、高速道路で横転したこともありました。タイヤがバースト(注・車のタイヤが走行中に急激に破損すること)するという事故を起こたんです。
と語っている。関東で暮らす妻子に合流した経緯の一つとして、タイヤがバーストして運転中の自動車が横転した事故をあげているが、レイバーネットが発行するたんぽぽ舎メルマガの2019年10月28日版では、
職場では、震災後、業務の負担が増え、連日深夜まで勤務が続きました。
そんな中でも、私はなんとか休みを捻出しては、家族に会いに夜の高速道路を飛ばしました。深夜の常磐道は、私と同じように家族の元へ向かう父親達の車が、何台もふらふらと走っていました。誰もが、妻子に会いたい一心で、疲れた体にムチ打って車を走らせていたのだと思います。
私も無理が祟ったのか、避難所から福島に帰る途中で、事故を起こしたことがありました。深夜の首都高速で、路面のオイルに気づかずスリップし、横転しました。幸い、命に関わる怪我はありませんでしたが、乗っていた軽自動車は廃車になるほど激しい事故で、24年前に免許を取って以来、これが初めての事故となりました。
こういう経験をしたこともあり、同じく二重生活を送っていた妻の友人が、類似した状況で他界したことを知った時は、本当にひとごとではなく、言葉がありませんでした。
と、事故原因が路上のオイルによるスリップに変わっている。
水耕栽培、退職と家族への合流、横転事故と当人にとって重大事であるにもかわらず、ここまで発言内容が変わるのは尋常ではない。
この家族の体験の何が事実なのか、まるでわからない。自主避難の経緯と行程がわからないだけでなく、被害の実態もわからない。それなのに彼らは放射能まみれになり、被曝して、平穏な生活を奪われたと、何一つエビデンスを示さないまま主張している。
鴨下全生氏はX/Twitterに、
今でも福島の現実を受け入れられない人が多くいることに驚く日々でした
鼻血だってそうですし、果樹農家の方が汚染された土地で労働していることも、原発から出た廃棄物であれば黄色いドラム缶に入れるような汚染のある地面で幼い子供が遊んでいるのも福島の現実です 福島はまだ、復旧すらしてません
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と投稿した。
鴨下家は13年前に、避難する必要がないいわき市から避難した人々だ。そして、いわき市は汚染されていると主張して関東で避難生活を送っている。要するに、13年間いわき市や他の福島県の自治体で生活してきた人々の代表ではない。
しかも体験と称して曖昧な逸話を語り、その内容が二転三転し、エビデンスを問われても答えないとあっては、福島県の内部も外部も関係なく、被災者の代表どころか何を信用したらよいのかわからない。
彼らは批判者を煙に巻いただけでなく、賛同者や支持してくれるマスメディアまで不確かな語り口で利用したことにならないか。
いま多大な迷惑を被ったり傷ついている人たちがいる。鴨下全生氏は、せめて鼻血を大量に流す子供たちについて質問に答えてもらいたい。
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