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「よくもまあ、こんな可愛いあーしを」
正直、毒親ってものが何かイマイチわかってないまま、ちいさいオジサンになってしまいました。定義がわかってないまま毒親育ちと名乗ってますが、どうかお許しください。
うちの家族は、ちょっと壊れてました。酒乱の父とギャンブル借金狂いの母のもとに生まれたので仕方ないです。
物心ついた時から父は恐怖の対象で、一緒に遊んでもらった記憶などなく、優しく触れたれたことなんてないと思います。いつも薄暗い部屋で酒を飲み、煙草の煙をモクモクとさせては、怒鳴ったり暴れたり殴ったり蹴ったり。
母も父の暴力の対象でした。それのせいなのか、僕たち兄弟は、守ってもらっていると錯覚していたのかはわかりませんが、父より母のことが好きでした。
どんな時も、父の顔色を窺って過ごしていたように思います。いつ何に対して怒り始めるのか、大人になった今でも理解することはできませんでした。
理由はなんでもよかったんです、きっと。お酒を飲んで、お酒に飲まれ、記憶をなくしながら日々の鬱憤を暴力にかえて。ある意味、幸せな人だったのかもしれませんね。
酔った父は、暴れきった後のルーティンがありました。薄暗い自身の部屋で長時間の正座を強要し、腕に煙草で根性焼きをします。煙を吸っていないときの煙草の先端温度は、およそ300℃から400℃だそうです。
黙って腕に煙草を押し付けさせたわけではありません。父に指示された母が、腕を引っ込めないように押さえつけるのが恒例でした。
押さえつけ係をする際の母は、いつも氷袋を持っていて、煙草を押し付けられた部分を即座に冷やしてくれます。それが優しさのように感じ、母は味方のように思ってました。
当時は幼く、暴力を振るう父に恐怖し、腕を冷やしてくれる母に優しさを感じるのは、自然の摂理ってもんです。高校入学まで母親っ子だったので、幼い時の記憶というものは恐ろしいですね。
大人になるにつれて理解したのは、恐怖を与える存在も保身に走り続ける存在も、子どもにとってはどちらも悪です。
「子に過ぎたる宝なし」という言葉、少なくとも僕たちには無縁だったなと、しみじみ思います。南無南無。