John's Call ~難病を抱えながらも活躍し、ジャパンカップにまで出走した歴史的晩成馬~
十年という長い競走生活の末にG1に初挑戦し、タイトルを獲得した競走馬、それがジョンズコールである。
父はイギリスの名馬ブリガディアジェラードを祖父に持ち、後にウォーエンブレムの母父となるロードアットウォー。しかし、ジョンズコールが生まれた時は決して注目された種牡馬ではなかった。
4000ドルという安値で取引されたジョンズコールは最初は障害競走用の競走馬として鍛錬を積んでいた。デビューが見えてきた頃、ジョンズコールは季節性日光アレルギーというハンデを抱えていることがわかり、若駒がしのぎを削る冬に外に出られなくなってしまった。
トレーナーのトーマス・ヴォスは屋根のついた室内コースで、夕方から調教を開始するという専用のトレーニングをジョンズコールに課した。これが後にG1を取るまでジョンズコールを成長させる柔軟な筋肉をつくることになったと言われている。
アメリカの主流競走からはずれた場所で、静かに鍛錬を積んだジョンズコールは、七歳までで十三戦五勝。そのうちの四戦は障害競走だったがすべて掲示板内。ジョンズコールは着実に成長していた。
八歳になった六月、ジョンズコールはジーン・リュック・サミン、スティーブ・ハミルトンといった一流騎手を背に六戦四勝、リステッド競走で二着になると、初めて重賞に挑戦、ローレルターフカップ・ステークスで三着に入る。
翌年、九歳で再びローレルターフカップに挑戦すると、今度こそ優勝。九歳という遅咲き馬として重賞ウイナーに仲間入りした。
「ジョンズコールはまだ成長している。しかし、いつか終わることはわかっている」
十歳の冬を越したジョンズコールが七月のリステッド競走に出走して優勝すると、陣営はG1、ソードダンサー・ハンディキャップへの挑戦を決意する。
出遅れをものともせず、九馬身差の大勝利。
十歳で初めてG1に挑戦して、勝利したのはジョンズコールただ一頭という歴史的な勝利だった。
ジョンズコールはその勝利がフロックではないという証明に、続くマンノウォー・ステークスでも四着。さらにターフクラシック・インビテーショナルでG1二勝目。本番のブリーダーズカップ・ターフでも三着と大健闘。
「まるでおとぎ話のような馬だ」とジョンズコールは超遅咲きの功績を称えられた。
ブリーダーズカップの後、ジョンズコールは招待馬としてジャパンカップに出走。
相手はテイエムオペラオーをはじめ、ファンタスティックライト、メイショウドトウ。
世界の一流馬が集った中で、ジョンズコールは果敢にハナを切る。そこにせりかかってきたのはまさかのステイゴールド。
後に世界を制する晩成馬の日本代表とアメリカの晩成馬代表がまさかのマッチレース。最後には二頭仲良く着外に沈んだが、ジョンズコールはある意味で日本のファンの記憶にも残った。
十一歳になってもジョンズコールは現役を続けた。初戦のリステッド競走に勝利したが、連覇を懸けたソードダンサー・ハンディキャップで敗北。続くリステッド競走も連敗して、ジョンズコールは長かった競走生活を終えた。
4000ドルで取引されたマイナーな競走馬が、八歳までに得た賞金は40万ドル。
これだけでも充分に馬主孝行だが、ジョンズコールは十歳の一年だけで100万ドルを獲得してみせた。
騙馬ゆえに産駒を残すことはできなかったが、父ロードアットウォーの種牡馬価値を上げ、名トレーナーとなったトーマス・ヴォスは後にアメリカ・グランドナショナルを二度優勝した。
ジョンズコールは多くの人や馬に新たなチャンスを与えたおとぎ話のようだ馬であった。
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