エンドレス・ポエトリー
この映画は、前編であるリアリティのダンスの続きであり監督であるアレハンドロ・ホドロフスキーの自伝映画だ。
人生の数奇的な成り行き、父親の隠された苦悩がテーマであった前編とはうって変わり、青年期のホドロフスキーの成長、出会い、苦悩、詩人として生きる覚悟など本人自身の自省がテーマになっている。
この映画では、これまでのホドロフスキー映画と同様に芸術的な画作りや比喩を凝らした舞台美術で心情が豊かに表現されていた。そして表現する対象はホドロフスキー自身の過去であるため感情移入できて分かり易い内容になっていた。
問題 わだかまりへの赦し/解放
芸術と自己洞察は密接に関わっているように、この映画もホドロフスキー本人が過去の人生を把握、受容するために作ったことが伺える。というのも、劇中、思い悩む主人公の前に何度も「本人」が登場するのだ。本人は啓示を与えていつの間にか立ち去る。本人出てきておもしれ~...ではなく、「ただ過去を描くのではなくて向き合う」という姿勢なのだと思う。
映画自体は、ホドロフスキーの故郷からの巣立ちで幕を閉める訳だが最後のシーンはホドロフスキー自身の出演により後悔や懺悔、受容、それに伴う成長が描かれている。これはネタバレだが、つまるところ抑圧的な父親を赦すのだ。
人間の成長は問題への赦しが必要で、例えば精神疾患の治療もまず病気の罹患を受容することから始まる。もっと分かりやすい例で言えば、安西先生の「下手糞の/上級者への道のりは/己の下手さを知りて一歩目」というギャグ俳句だと思う。ホドロフスキー自身の問題として約70年間抱えてきた父親への執着、それを解決できなかった確執を赦すことによって解消し、それがそのまま映画のカタルシスとなっているのだ。自伝映画ならではの手法か。
赦しを与えるというのは非常にポジティブな行動なので本当に映画の幕切れの後味が良い。まさに「魂の救済」をテーマとしているホドロフスキー映画らしいと言える。
詩 表現とは
話の中心となっているのは主人公の詩人としての活動であり、詩とは何か詩人とは何かを考える哲学的な要素が多くを占める。
実際に詩とは何か問われるシーンで(詩人とは物事を言葉で表現するものなのでこういう抽象的なものに対して直球で訊かれることがよくある。その問答も素晴らしい)ホドロフスキーは「蛍を飲み込んだカエルの糞だ」と言っていた。この表現自体は状況も相まってわざと粗雑な言葉を選んでいたと思うが、内容自体は同意するところだ。個人的に芸術(詩)とは表現であると考えている。
芸術とは対話や言語を超えた表現であり、表現するものの材料とは常に世界から得る要素である。ホドロフスキーは恋人のステラを蛍とし、しかしステラほどの輝きを表現できないという謙遜から自らの詩を糞などと形容したのだろう。
悩み事を言葉にすると思考が整理されて落ち着いたり、人と会話するとオキシトシンが分泌されてストレスが緩和されたりする現象にみるように、すなわち表現(言語による会話も含む)=癒しなのである。コミュニケーションや癒しとして、人間が生きていくためには表現は必ず必要で、それをライフワークとするのは非常に"人間的"であると思う。仏教的な考え方に基づけば癒しこそ高い精神レベルの現れであり、媒体が言語であれ象徴であれ表現者は素晴らしい。それに身も精神も捧げる決意をしたホドロフスキーは真に「魂の戦士」なのだと思う。
終わり
元々ホドロフスキーのファンであるので非常に楽しめたし示唆的で勉強にもなった良い映画だった。しかしオススメかどうかというとそれはわからない。ホドロフスキーの映画全般に言えることだが癖があって難解なので好き嫌いが分かれるからだ。でも興味があったら楽しめると思う。
最初に書いた通りこの映画は前編である「リアリティのダンス」の続編だが、この映画を観るにあたって「リアリティのダンス」は視聴する必要は無いと思う。テーマがそもそも違うし独立して楽しめる構成になっているからだ。
ちなみにおすすめの映画は「BLADE」の1なのでそちらは是非観てください。
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