メサイアコンプレックスについてふと考える。
メサイアコンプレックスは
本当にコンプレックスなのか?
そもそもコンプレックスとはなんだろう?
日本では劣等コンプレックスとしての
意味合いが強いコンプレックス。
そこにフェティシズムが加わり
コンプレックスの幅は良くも悪くも広くなった。
そんな中で出会ったメサイアコンプレックス。
乱暴に言うと情けは人の為ならずを地で行く感じ。
それもやや病的に。
確かに病的に行っているなら
コンプレックスとついても違和感はないが、
上述したように
劣等コンプレックスのイメージが強い日本。
私ももれなくコンプレックスといえば
劣等コンプレックスのイメージが真っ先に浮かぶ。
むしろそれ以外のコンプレックスの
イメージが乏しすぎる。
そんな私はメサイアコンプレックスに
コンプレックスとつくことが甚だ疑問なのだ。
救いを求め誰かを救うことは
取り立てて変な話ではない。
むしろあらゆる選択肢の中のひとつだろう。
それも自分を救う手立てが
すぐそばにない時の応急処置に近い。
その応急処置を誰が責められるだろう?
もちろん過ぎたるは及ばざるが如し。
自分と向き合わず他人にかまけているばかりでは
自分を救うことはできないのは確かだ。
そうだとしてもコンプレックスとつくほどなのか?
別にメサイアコンプレックス自体に
文句を言いたい訳では無い。
でもコンプレックスという言葉は強い。
あまりにも強すぎる時がある。
そもそも自分を知るための言葉が
自己否定の言葉になりかねないのだ。
コンプレックスはそれを秘めている。
その名の通り劣等コンプレックスとして。
欲を言うともう少し優しい名前にしてほしかったと
私は思っている。
私が仮に他の名前をつけるなら
自己回避救済型とつけるだろう。
回避型愛着障害とも似ているが、
自己回避救済型は自分のことを回避して
他人を助けるという意味合いを込めた。
型とついているが他の型があるわけではない。
あくまでメサイアコンプレックスを自覚する人達が
集いやすくするために便宜上つけただけだ。
分かりやすさもありつつも
調べなければ実態は分からない
そんなラインにできたと自画自賛しておく((
言葉の響きや印象はとても重要だ。
自分を知るための言葉ならなおさら。
私は言葉遣いを大事にしたいし大事にする。
表面的なものじゃなく血の通ったものとして。
時には誰かを守れるような肯定できるような
そんな言葉遣いをいつも目指している。
それこそ情けは人の為ならず、そんな風に
回り回っていつかの自分をきっと助けてくれる。
そう信じて。
メサイアコンプレックスについてふと考える。
~完~